○「今切の渡しと舞阪」
明応七年(一四九八)八月二五日大地震と津波で一瞬のうちに舞沢は押し流され湖底に没した。難を逃れた三十六戸の人々は、東方松原に居を求めて移り住み、舞沢の復興に努力して今日の舞阪を築きあげた。舞沢の切れた所をそれから今切と呼ぶようになった。縁談がまとまった若い女性は今切れの呼名をきらって、湖北の岸を通る木坂峠道を選ぶようになり、この道を姫街道と呼ぶようになったともいわれている。
弁天島は、この津波のため大石が崎の先端が切れ離れ島となった。この島に今切り渡船の海上安全の守護神として弁天神社を建立したのは、宝永六年(一七〇九)のことである。
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○「渡船の宿・新居」
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○「国境の宿・白須賀」
「(中略)今坂の上に住む所以は、明応より以来急波(はやなみ)数々ありて、宿駅既に潰ゆ。元禄十年駅家を移し、旧地を謂って本白須賀と号す」と。また「東海道名所図絵」は「荒井まで一里二十六町又白菅とも書す。須賀は東国の俗語に真砂のあつまりたる所をいふ。洲賀と書くべし。賀は助字なり。横須賀蜂須賀もこれに同じ……」とあって、現在潮見坂の東方崖下に元町という半農半漁の簡素な部落が残っている。この付近が移転前の白須賀宿の位置だったといわれているが、元禄年間の移転で、白須賀の移転は宝永四年の大地震津波の被害によって、その翌年(一七〇八)とみるのが妥当のようだ。
〔浜松市史一〕