又天保四年十月下旬輪島津波の事を聞に、昼七ツ時頃大なる地震有て、七ツ時過磯端波引事凡十町計、輪島沖に大蛇石といふ岩あり、舟方かよひ路に障る所、此岩を知て舟をめぐらす事心得の第一とする由、波引去と彼岩大蛇のごとくあらはれ、其外異形の岩石常に見なれず模様、且波引たる跡、墨をながせし如く黒く見えたり、すは津波ならんと人々呼さそひ逃る内、はや波一枚来り、両町とも床の上へ上る、弥驚き逃る内、又一枚同断之波来る、第三枚の波其高き事山の如く、磯にあるてんとゝ唱る舟、、六七十石、積之由、、人を乗せながら、両町の間の橋の上を三間計高くゆら/\と越え、南反圃へぞ、当町海は北、にあり、、打揚る、其内又舟をのせて元の磯へ行しも有、乗たる人は恙なし、橋も反圃へ打揚たりといふ、此一枚の波にて、河合・鳳至の両町に家引取らるゝ事三百軒、慾にまよひし人、或は老人・産婦等、都て逃後れたるもの死人百余人とぞ、荘屋何某今も身の毛よだつとぞ噺けり、実に稀有之事也。此段海辺の人は心得置べき事なり、
○『続能登路の旅』の校訂者日置謙氏によると、「能州日暦」は新川郡の御扶持人十村であった宝田敬が記したものである。天保七年(一八三六)四月に藩命により、古君(石川県鳳珠郡穴水町)・鵜川(同郡能登町)両村の漁場領地に関する争議を解決するため、その地に出張した。本史料は、宝田が輪島にて聞いたことを記している。