(天保四年巳年十月廿六日の地震)
(鶴岡藩士北楯利貞筆記会財布に依る)
十月廿六日朝より雨降暖気成る事開きの障子明置きても猶もや/\して風ほろ暖かにして云斗なし、七ツ時過大ニ地震す、両度也、屋敷の泉水の水打上ること一尺斗、堀端へ浪打入土蔵鳴事撞鐘の竜頭のことく、地上うねることしゆう麩を練るか如し、其外立懸たる筆倒れ傘の類釣置たる皆倒る、地震の強きこと是にて知るべし(利貞曰、此地震ニ付両度の御届書の別ハ別記す)
右地震ニ付指当候雑談承り分不取敢記し置、地震後小湊村林の中より鮭四本出候よし、其外関辺にてハ火炉の中より島廻り魚・河豚等出候よし、或ハ田の中よりも右魚類出候由、又汐水の残ある処ニてハ游居候も有之事より是ハ慥なる事ニ候間、御書留有之候て可然と石川司農物語られ候、珍敷事ニ候、地震の節代官町野村専右衛門処にてハ座敷床の間のおとし掛落土蔵の壁三方共倒れ候よし、此外にも諸処にてケ様の痛所有之、酒田にてハ別て強て家毎ニ壁等倒れ候趣ニ相聞申候
天保四巳年十月廿六日大地震ニ付酒田〓申来候趣書取、御本丸御書院向長押はつれ壁倒れ御同所御兵具土蔵壁少々痛、御塩〓蔵土蔵大破大手御門御別条無之南の方神塀倒れ候由、御同所御橋中程たゆみ御家中の家壁痛等有之候得共、格別の事無之由鵜渡河原別儀なし、町方内町飽米屋町組の内潰家半潰家并ニ傾家所々相見候由、海日引分ハ潰家等御座候故、内町佐竹弥右衛門名子八兵衛と申者の子壱人地震ニ付怪我死候由、船場町より宮の浦への渡りを越るもの高波ニ相成水死と申沙汰有之由、又高野浜の者八ツ取ニ出候て水死に申事也
一十月廿五日朝天西の方赤く朱の如ニ候故、浜辺の者共変有之候哉と申候内翌二十六日地震津浪也