一、寛延四年未四月廿五日夜半、高田近辺大地震、諸所地裂ケ、山崩レ、町家ハ将棋倒しに而、御家中家々ハ不顛者僅カに十ガ二、三なりし、家屋の潰るゝ事一時ニハなけれども、震する事数度乃内に歯のゆるぐか如く、翌朝迄に倒るゝ有、一両日をへて潰るも有りしが、其夜、町家ハ春日町・鍋屋町・紺屋町火事三方〓出て、圧死之内ニ焼死ものも有、夜明前、雨強ふりておのづと火も消にけり、都而之人死数しらす、いつれも寝入端の事なれハ猶更、ふと起たつ事、居事あたわず、逃去事叶わず、老人・子共ハけがせぬハ希なりけり、その強き時ハ大地に竹木の梢を伏、井戸の水砂を吐、誠ニ高き崖谷となり、深谷となる、啼〓虻蚊の如く、面然地獄乃有様、其未明、御目付役竹内又四郎、江戸へ早追ニて上られける、其時、丹羽半三郎悴丹波常弥江戸ニ在りし、無恙出たりと云一行を書て又四郎が駕篭へ投入たり、江戸にて家内無恙を知る者ハ独り常弥と云、但、右一行を投入遣し候者、滝見弥平次が心付て遣しける由也
かゝるセ話敷場ニ而(急用)久要平生を忘れざる所感ずべし
大手御橋前にて大釜三所ニかまへ、粥を煮て往来の人々ニ賜事也
御家中惣体江御陣張の渋紙拝借して急雨を防きける也。夥敷渋紙なり
近領之郷津村・長浜村山崩れて中ニも郷津村海中に没投する事二百余家、此春いつ〓も大雪ニて其あげくに赤雪の壱尺斗もふり申し、是も地震の前触にやと後ニ申ける、其むかし、寛文五年乙巳十二月廿七日、大雪の中ニ大地震ゆへ、人死ハ此夏に倍すと云、さもあらんか、今度御家中圧死の人々遠藤友左衛門・上野軍平、是ハ成田鮫島、弟也、藤浪弥左衛門妻・加藤武右衛門妻・三島十郎妹・前田市郎兵衛娘・原田与次右衛門妹両人・村山直三郎・高山作左衛門・荘田杢之允・山川平内・谷口清太夫三男、此外も多ク、可有之、、山川平内ハ九才、直江町ニ居たりし、其節、実ハ(長押)承塵にかゝりし長刀、鞘抜ケ落て喉ニ中り、押かゝりたりとそ、さもなくハ命ニもかゝらましと悔ミける、此児の兄六太郎十三才、疱瘡ニ而死去、親父六郎兵衛ハ浅川在番ニ而死去也、山川家今度すてに滅却と沙汰せる事、半年計過て今度乃大変、又、有へきにもあらすとの厚き 御思召ヲ以歟養子被 仰付、同苗十郎左衛門三男甚五郎相続す、是山川家運の基也
廿五日夜〓震る事七、八日のあひたすへて止す、其後も安堵せざる事凡廿日余り也、いつれも竹の柱、かや簀囲いたして地震小屋とてこゝに住居する、たとひ本屋ありても入らす、惣体しまり等埒なき事共なれは、近隣申合、日夜自身番にて廻る事有、此廿五日、首斬られ候者有、今泉橋ニて獄門に懸る、××之者番ニ附居しが、地震の節、動出けれは大ニ驚き、手を合セ、逃出しける、暫くして震たる事を悟りたると咄し也、其頃、御勘定方勤豊田武左衛門此前郷津浜〓金子借り出し、御上江も御申立し処、今度右之者家内不残没海せしかハ、是〓豊田が振廻ハし宜く成しとの咄し有
此以前、越後守様の時、寛文五巳の十二月、大地震以後の地震なり