大地震鎖話
寛延三庚午年(西暦一七五〇年)は大早魃にて、(宝暦元年)翌未年は大地震。弘化三丙午年(西暦一八四六年)も稀なる旱魃、其翌未年大地震と伝はる。高田城主居間に先代より地震枕と号する木にて大丈夫に造たる物ありしと伝たはりしが。是寛文五年十二月の大地震の時より造たるものか、文政年間(西暦一八一八年―一八二九年)迄城主の寝間席前後に置しものなる由、其後火災の節焼失せざると伝ふ。
宝暦元年四月廿五日夜の大地震より、二十九日夜九ツ時再大地震、其後とも五月六月七月より秋末に至る迄小震数十回有之、冬に至て静になると雖も、此後四五年の間も折々震する事ありたり。四月二十五日夜の地震は、西北の方より大風の発する如く震動して東南の角に向て大震し、二十九日の大震は西南の角より震動して東北の方へ震する様聞たり。此大震後は日々快晴にて天気続き、浜方にては鮮魚の山をなしたり。此大地震の後北海より往古の如く大津波大海湧あるべしと云て、高田城市大騒動致せしと雖も、一時の虚聞にて相済たり。四月二十五日夜より城下市在とも仮小屋を造り、仮住居を致したれども、本屋に住するものなく。七月頃に至て何れも帰住することとはなれり。高田城内外堀にある鮒鯉の類、此地震の為死して浮き出る者至て多く、之が為水上真白に変り、鳶烏類群集せり。
寛延四未年(此年宝暦ト改元)
四月廿五日夜八ツ時大地震にて村々家つふれ候、其夜ハ節々地震入申候、前代無之大変所により地二三尺ツゝわれ高田今町も過半家つふれ候、お寺にても娘二人南にても子守壱人死去す。下池部円右衛門殿姉夫死去其外男女共六人村にて死人有之、右地震にて用水江損候て難儀いたし候。
五月七八日より水田植付候、然る所ニ用水相下リ不申六月三日四日より十日過迄ニ植付候、右之分日損にて六月廿日時分より田草取候処はかとり不申(日雇)日用五百人程入候て漸田草仕廻候、水田悪作いたし候。
手前家義座敷ハつぶれ本屋ハ三尺余西方へゆき候馬屋三尺程東へゆき候、蔵落候て土蔵こまいともに不残仕直し候
(注、以下、本書三七四頁以下の〔今町会所地震書留写〕と同文の部分を省略)