(天和三年五月)
○廿五日、昨日また日光山大地震百廿余度に及び、宝塔傾頽のよし注進あり、よて少老堀田対馬守正英を急につかはさる。また群臣まうのぼり、老臣に謁し、御けしきを伺う、番入するもの五人(別本万年記、日記)(中略)○廿八日月次なし、(中略)少老堀田対馬守正英、日光山よりかへり謁す、(中略)
(天和三年閏五月)
○六日、奏者番松平備前守正信、使番保田甚兵衛宗郷、山下五郎右衛門昌勝、日光地震後の修理奉行命ぜられ、暇給ふ(中略)(日記)(中略)○廿七日(中略)日光修理の助役命ぜらる、本坊は丹羽若狭守長次、内藤左京亮義泰、津軽越中守信政、仏殿、大師堂は真田伊豆守幸道、戸沢能登守正誠なり、(中略)(日記、藩翰譜続編、人見私記、年録)
(中略)
(天和三年六月)
○十二日(中略)けふ日光山修理の間、千人頭二隊づゝ火番仕ふまつらしむべしと鎗奉行に命ぜらる(日記)
(後略)