(慶安元年)
○四月廿二日、地震ニ付
家綱公御機嫌為御窺御登 城被遊
引用書
勘真
口上
追而致啓上候、然は去ル廿二日午之刻地震仕候而、如船ゆり申候、乍去此跡之地震〓少ニ而御座候
公方様御留守ニ御座候
大納言御機嫌如何御座候哉と、不残御在江戸衆御 登城被成候、岩松様も御上り被成候而、下馬御門御番所ニ而何も御帳ニ被為御帰被成候、、中、略、、次ニ、今度日光ニ而御法事之次第、別紙ニ書付進上申候、恐惶謹言
松野半左衛門
卯月廿五日 花押
関蔵人
あ花押
滝川兵部
利花押
竹本外記様
岡本宮内様
寺田将監様
人々御中
案するに、此書状、年序詳ならすといへとも、今此年のものと定むるものハ、書中に公方様日光御参詣御留守のこと見ゆ、これ此月家光公日光御参詣の事にして、又寛明事跡録に此月廿二日午刻地震云々とありて、本文と符合すれハ也
(後略)