明和五つの夏、富士の雪を見んとて、善助といふしたしき人を伴ひ、無水月廿五日安房国和田村を出つ
(中略)
廿九日、朝五ツ時前、関を開き通る、関所は山の麓也、是〓とふげ迄弐里登る。坂けわしからす、馬にて越、馬子は矢倉沢の者也、道すがら四方山の咄す、今年六月六日地しんす、矢倉沢大地じんに而、田畠大きに破損す、馬子か家の馬の食を煮る釜四、五人にてかく計なるに、釜石四、五間脇ゑ崩れとぶ、しかるに一里脇ははや少計の地震也、昔日六十六年計前大地震す、其後三年過富士の土降る、三日の間暗く天灯をとぼす、我親の咄に、人々世界の尽るといふて、近所/\相集り、灯明の本にて念仏を唱ふ計也、平地へは土砂弐尺、三尺計も積り、片岸斜なる所には五、六尺も積りたるよし、今も此辺山の崩れ口を見れば、一、二尺も破あり、焼砂に而色黒し、とふげより前に右に矢倉岳といふ山、左に入道岳又金時山といふものあり、
(後略)
注、本史料は、安房国和田村の医師・池川春水が明和五年夏、富士登山をして書き残した記録である(清水孝之「池川春水の「奥遊日記」について」『連歌俳諧研究』一九六八)。