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項目 内容
ID S00000276
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1649/09/01
和暦 慶安二年七月二十五日
綱文 一六四九年慶安武蔵川崎地震(慶安二年七月二十五日)
書名 〔大猷院殿御実紀巻七十五〕
本文
(慶安二年七月)
○廿五日、雑司谷薬園茶亭修理奉行を小姓組堀惣兵衛直昭、花房又七郎栄勝に仰付られ、平川門の腰掛并舂屋修理の奉行を大番組頭小笠原久左衛門直光、大番中島権左衛門正勝に命ぜらる、みなさきに地震にては破損せし故なり、今朝大雨、午刻又大地震、けふの地震により、川崎駅の民屋百四、五十軒、寺七宇崩頽し、その辺四、五村民屋破れ倒れ、人畜毀傷する者多きよし、代官伊奈十郎忠治より注進す(中略)(日記、水戸記)
(中略)
○廿七日卯刻大震ありて、其後も時々地震し雨降、よて日光山へ急脚をつかはさる、又尾張亜相をとはせ給ひ、小姓組番頭加々爪甲斐守直澄御使す、三家使もて御けしきうかゞはる、今より後かく大地震あらんには、非番の目付は大手、桜田両下馬所にまかり、昵近の輩を査検し、門内にいらしむべし、酒井河内守忠清、松平和泉守乗寿、安藤右京進重長は、各邸の門前へ家士、健児をさぶらはしめ、従者多く召連たる者を抑留すべし、平川門の方は、松平伊豆守信綱この事をはからふべし、また保科肥後守正之、常は芝浦の別業にすむといへども。この頃しば/\地震して世も静ならねば、桜田門の邸にまかり、この後地震あらんには。邸辺往還の人を査検して、通行せしむべしと命ぜらる、今夜阿部対馬守重次宿直す(日記、水戸記)○廿八日、(中略)、今朝卯刻、天赤くして火の如し、
少しく地震し、午より烈風ふき、夜中時々地震あり(日記、水戸記、紀伊記) (後略)
出典 都市の脆弱性が引き起こす激甚災害の軽減化プロジェクト【史資料データベース】
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