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項目 内容
ID J3300001
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔弘化大地震見聞記〕「日本農書全集66 災害と復興1」飜刻原田和彦一九九四・四・二五 (社)農山漁村文化協会発行
本文
[未校訂](注、新収巻五、別六―一、四四二頁にあるも後半は未印
刷、後半の部分を掲載する)
 斯て我々四人の者、無難にて妻女山をさして逃去りぬ。
頃ハ既に夜六半時なりけらし。岩野村人々、或今も我住
所江水上り来らんそと家財雑具担持、老を携ひ、児を横抱
にして我先にと妻女山、或笹崎山江走集る。燈灯星のこと
く右往左往と騒動す。
 余者三人の者見失ひ、独り赤坂山江至りけるに、短(たんかつ)褐肌
寒くして山上に宁かたく、少し木陰成に腰うちかけ、川
中島之方眼を不離見つめ、今や我村方の家流るゝらんと、
気も心も絶入計に有ける。
 村の者一両人、我傍にありて諸共に故里を咏やり、如
何成過世の縁因にや、先の廿四日夜者地震にて辛きめに
逢しも、天明の捨賜ハさりしや、今夜まて生なからひ、
今夜また此水難にて危き命も助りて此所迄逃さりしが、
我村内もあの水音にてハ中〳〵残る家もあるまし。さす
れハ、今宵此場より乞食・非人と落けるかと、共に悲歎
に呉ける中に、壱人の男申けるハ、あなた方ハ御子供衆
もなく、何れの地へ御越被成候共、御身之計のミ也。我
等事は老を持、子供ハ多くあり。縦、乞食せんも心の侭
ならす。死するにも死なれす、生るにも斯の通り家も田
地も押流されてハ、何をたつきに日々を過さんやと人毎
に心のたけを口説たて歎きける。
 折しも、誰人か水際に至り一看し来つらん。最早水も
是迄なり、先刻より五寸程水落しなりといふ。此説を聞
て、先少し安堵の思ひに任しぬ。此時刻ハ夜の九ツ時と
おほひぬ。十四夜の月もほのくらく、さたか川中島ハミ
へ渡らねと、村々ハ池の藻草浮むことく、こゝや彼しこ
に見へにける。我村のあたりハ、水先とミえて終夜動〳〵
と鳴音耳にたち、きもにこたひてやる方もなく、東方の
白むを今やと待けり。
 夏の夜のはやくも明やすく、既川中島も少しくミえけ
る侭、山を下り村前の渡りのあたりに至りけるに、岩野
村本田ゟ下ハ水落けれと、泥深くして歩行もなりがたく、
村舟もミえす。人々我家ハ如何なりしそやと我先にと若
者ハ舟を乗出しける故、余も村方を見渡ハ、南の方の家
ハミゆれ共、北の方ハ木立の陰にてミえかねける故、い
また安堵の思ひを至らす。
 若者を頼ミ小舟に棹さし村前へ至りけるに、昨夕方ま
でハ青々とせし麦畑も、一夜の水に漫々たる大河と変し、
夢に夢ミし心地して、漸々村中江足跡をたつね至り、西の
方ゟ土地神の森へ至りミるに、我家も無難ミゆ。一安堵
して産神江ぬかつき、水の中をひろひ〳〵て我園の中ニ入
けるに、家の裏のあたりより西にあたる畑の中に流家の
屋根四ヶ所まて留りける。是なん西山中辺の村方の流家
ならんと、おづ〳〵として屋根を渡り庭中江至りけるが、
稽古所西の障子弐本破れ居り。是より内に入けるに、南
の方入口の板壁・戸障子押破り、畳にて家財諸道具押流
しぬ。座敷の方江至ミるに、簞笥・櫃の類、不残本宅の庭
へ押出し、離れ〳〵にくたけてあり。雑具不残押流し、
家も傾き、既に倒るゝ計。泥壱尺計入けるまゝ、若や溺
死のものゝ流来りあらんも計かたけれハ、早々にして門
前に出ける。
 此時、弟寅吉外壱両人若ものに逢ぬるに、人々申ける
ハ、岩倉村崩所十分三歩にて、七歩程水残り居、今日に
て又々押来るよし、東福寺村役人申ける間、今朝ゟ渡り
来る人々は、追々川向江帰りけると告ける侭、さて〳〵此
上にまた七歩の水ありて、又も来らハ迚茂叶ふまし。命こ
そ大事なれ。急き岩野村江帰るへしと人々と申合、早々渡
りを頼ミ帰りける。
 扨かゝる有さまを一看し候侭、食餌さえすゝまず、鬱々
として心地悪しかりしが、兄弟三、四人い(岩野)わの村両家の
人々にも談し合、今日まてハ皆々さまの御世話に成しが、
明日の事しれ難し。水もいまた尽さるよし、迚茂此地に住
居致し候とも、行衛暮し兼つるまゝ、我等事ハ弟文蔵来
るこそ幸なれ。共に同道してしハらく出府致し、騒動の
落付けるまて身を忍ひ申度よしを語りけれハ、一同も尤
と察し、評義とり〳〵にありける。中ニも寅吉事ハ、女房
も二月中ゟ親元江預ケ置事、且ハ農事も出来候身の上故、
致し方なく元の侭に家事務たきよし申けるまゝ、其義も
尤と同し。荊妻をハ、先篠の井御平川の親兄弟や親類の
方へ暇乞旁遣しけるを、留めさせんと計へ、弟文蔵へハ、
家内之者ハ定而出府も自由に出来まし、左候ハヽ、我等貴
様と同道して給ひと頼ミける。
 其夜ハ次第に悪寒致し、後ハ大熱にて大病となりぬ。
既に傷(しようかん)寒にても煩ひけるやと荊妻も心いためしが、翌朝
ハ熱さめ少し服しける故、夜前之咄に取かゝり、其日荊
妻ハ弟文蔵諸共、矢代村ゟ親兄弟の方へ遣し、文蔵ニも朝
早々にて別ける。其跡にて漸々朝飯も済、市郎太江昨日ハ
一件等与談しける時、市郎太被申けるハ、貴殿壱人之身の
上に候得者我等御かくまへ申而も宜候得共、御家内や兄弟
衆まてハ詮方なし。不実に思し召給ふましと申ける。我
等も此義尤之事、自分壱人ハいかにしても此地にて暮し
方も有へけれと、大勢の厄介ハ出来かたし。是にハ子細
ある事なれハ、一先騒動の落付まて立退きたしと語るに、
尤成事、乍去外ハ迚茂角も、今迄御懇意を蒙られし山寺様
江ハ如何被成候哉と被申けるまゝ、御尤の御不審、我等も
年来御厚恩を頂きなから御不沙汰申訳ハ無之。さりなか
ら、永く此土地を立退処存にてハなし。左候得者御蔵元江
申越、当分之御申訳致し度由申候得者、其義も尤に候得
共、是迄の御交りハ我等程しれす取計ひ難し、と心切な
るに感し能々勘合せし処、此節の大難に御暇乞不申ハ本
心にあらす。さらハ是ゟ一寸御暇乞に罷出可申候。定而御
登城にて御留主ならん。左候ハヽ奥様へ申上置帰るへし
とて、頭痛ををさえ御屋舗へ走行ぬ。
 案のことく御登城御詰越切、奥様御一人ニ而蜜(密)やかなる
まゝ、水難の御機嫌窺候而、是迄の一条委細御咄申上、御
暇乞申上候得者、此難渋尤之儀、乍去貴様殊之外顔色不
宜、病気ニ而者無之哉与被仰候間、昨夜大熱にて煩候趣申上
候得者、然ハ兎も角、此方にて養生相加、全快之後如何体
ニも計へ可申候。殊ニ旦那様も御殿江御出ニ而御留主之事、
我等取計にて遠方へ遣し候而も、跡にて如何被仰候哉難
計、旁以不相済。何れニも此方ニ而可致養生。先平臥可被
致与御念頃之御意難有奉存候。左様ニ御座候ハヽ、今夕御
厄介罷成御目通り仕度候。乍去従只今岩野村迄鳥(ちよつと)渡罷越、
夕方可奉窺与て御屋鋪を帰り岩野村江来候処、折節、稲荷
山伯父老人此度之安否如何哉与御尋被下、幸之事故、前之
始末御咄申候而、矢代村へ至りける弟文蔵へ右之由御伝
へ被下、当人義者今日出立之処、我等一条ニ付、矢代村ニ
逗留致し様子待居可申。迚茂同道致し出府者難相成、我等
を不待旅立致し呉候様御伝へ可被下とて申送り、其日夕
方又々御屋鋪へ罷越ける処、其夜者中之条御使者御出之
由ニ而、御殿ゟ之御下り四ッ時頃ニ而、御酒被召上御酔中
故、翌朝草(早)々御目通り奉願、此度之一条委細奉申上御暇
乞致しける処、此度之大難至極尤之事、乍去出府致し候
ハ如何、篤与相談可致。今朝者取込故、今夕可相咄とて其
日ハ草々御殿江御上り被成候故、無余義差控帰りける。
 其夕暮、又々御屋鋪へ上り、御下り奉待ける処、今夕
も九ッ時頃漸々御下り被遊御疲之事故、翌日早朝御跡ニ
付候而万事奉申上ける処、御懸念被仰候者、其方義者川中
島江名も聞居人物。此節御上ニ而ハ余人ニても壱人も他所江
散すまし与の御趣意。殊ニ自分も年来之近付、此場ニ至り
出府為致申候事不実之至り。若も出府致し候訳合相成可
申ハ、公用をかゝへ至るへし。家内者如何いたし申哉与の
御意故、此者者親元江暫く頼遣し置、壱人ニ而出府仕度候与
申上ける処、弟ハ如何。此者者耕作も出来候身分。殊ニ内々
御聞置奉願置候弟妻事ハ、去年中ゟ乱心仕、当二月中親
元へ頼置、我等方ゟ扶持米遣申候処、此程中引取可申候
由度々申来候故、此節之難渋之上、乱心者引取、弥以立
兼、両家共必死と難渋罷成。乍去私方ハ如何体ニ而も宜候
得共、弟之方ハ二月中ゟ此方ハ私之厄介ニ相成居候場合、
私一人之身之上ハ、如何体ニも暮方相成可申候得共、大勢
之厄介御座候而ハ、行末相立兼可申候。殊ニ又此度之水難
ニ而、家財雑具も押流し、居宅之方付も私壱人にてハ中々
難及。残り居候米穀之類弟へ遣し、私方ハ不立候共、宜
身之上御座候間、無拠右之訳柄ニも仕度与申上ける処、尤
之至。乍去此場にてハ出府延引致し、又々篤与相談可申
候。此金子は其方へ遣ス間、是にて人足頼ミ、泥の方付も
可致とて、金三分被下置。
 誠難有仕合哉。此節之場ニ御座候間、御辞退も不申上、
御心切之程、肝に答へて涙と共に頂戴致し、然らハ此金
子ニ而弟之難渋凌遣し可申候とて御暇申上帰り、弟寅吉江
右之訳柄為申聞、我等が身を捨て其方の難渋救遣スべし。
此金子ハ山寺様御心切之蒙御意、其上居宅之取方付旁其
方へ遣スとの難有御意、貴様身に答ふへし。只今其侭金三
分遣ス間、妻之扶持相済可申し。此上我等へ難渋申間敷と
て、早々東福寺村妻之兄・重作方へ遣しける。其日、岩
野村ゟ市郎太・大作親子にて手伝へ被呉、居宅之泥方付
相済ける間、追々掃除致し、流残り之家財雑具取集ける
事とハなりぬ。
 かくて、居宅の泥も縁者の助によりて大半かたつけけ
るまゝ、漸々に敷もの抔借調、食物之用意して、日々千
曲川迄雑具持運び洗ひ、朝夕の煙りたてはやと、隣家よ
り柴・薪なと請求めけれと、門前之小渓、水一滴流れさ
れハ、千曲川の水にて漸々飲食し、乞食・非人ニも劣たる
姿そうとまし。
 日数もはや四月廿三日にそいたりける。朝よりこゝか
しこの掃除にかゝりおりけるに、不図、大音にて、董斎
宅ニありやと、呼人。あ誰なるらんと走り出けるに、こハ
いかに、竹山町御奉行様、御同心壱人被召連御訪被成下、
つか〳〵と宅の庭へ御入ある。草(早々)々御迎申上、今日不図
も泥の中江御尋被成下置段、重畳難有仕合。僕か冥加にあ
たりたる義と平伏し奉謝。然る処、御奉行様之被仰にハ、
如何泥も片付候や。今日は山中・大岡辺江罷越序、安時申
間立寄なりと、厚き御口上にて、是ハ誰が家なると、隣
家へ御指さし被成候間、則御蔵本、金三郎か宅ニ御座候与
申上けるに、庭通りにて御通りぬき被遊、誰か居やとの
御意故、是も皆々御奉行様裏の方より御入あらんとハ不
存、家内悦の眉をひらき御迎ひ申上、先々こなた江とて縁
の上にまくり抔敷奉迎。拙も冥加之程難有、早々麤茶を
煎じ御進申上、是ゟ山中江御入にてハ、定而湯水も被召上
間敷と申上けれハ、されハ、山中辺の人気逆立居由、苦々
敷事哉。七日、八日逗留いたさねハならぬか思ひやらるゝ
との御意にて、後より御出之御目付様小野様とか申御方、
其外御同心、或雑具御持参之人部、都二十人計、暫く御
休息ありて、米八御案内致し、村境へまて御送り申上。
拙も途中まて御見送り申上、御暇申帰りける。
 それより日々宅の泥も出しけるまゝ、少しハ住居のま
ねも出来しかと、いまた園中の樹木押倒れおるまゝにて、
唯滴翠のしけりのミ、風流家の姿も懐旧のおもひなし。
荒々と狐狸の住かかとおもわれ、我園中なから物すこく、
日暮て外江さえ出られす、浅間敷体にそ成けり。滴翠待屋
も、戸障子襖不残縄にて結付、障子破れ、窓の損しなと
とりつくの(ママ)ひ、湿気の深き中に起臥せしめ、朦々たるこゝ
地ニて日々をおくりける。
 こゝに廿八日ハ、御領主様の御意として、御普(菩)提寺長
国寺様へ被仰付、三災亡霊の大施餓鬼、赤坂山より或千
曲川の辺にて、仏事御供養、厳そかにて目を驚したる事
也。それより御郡中諸寺院江御触たしにて、不残大施餓鬼
供養可致との事。御仁慮の程、誠難有とて、諸人日々赤
坂山へ集り拝礼し、感涙にむせび帰りぬ。さためて冤(えんき)鬼
も尽く成仏せしならんと思ふ事なり。
 五月四日七ッ頃、御奉行様御帰りにて、また〳〵宅の
庭へつか〳〵と御入あり。董斎〳〵居らぬかと、御高声
にて御呼被成。今帰り申。茶一ふく頼。早々拵て被呉よ
との御意、御機嫌御窺もそこ〳〵にて、御茶奉進けれハ、
御目付様御始、其外之方々も、こハ水の能加減か心地よ
しとて被召上。御奉行様之仰にハ、是ハ製し方の宜故也。
酒は飲すともこらひられけれ共、茶を飲すに居のか一番
難義なり。漸々思ひの侭に飲けるとて、五、七杯被召上、
御悦の色あらハれけるまゝ、山中辺の様子御尋申上けれ
ハ、誠言語に絶し申、涙の流る計。かく身も瘦けるとの
仰計なれハ、恐入て平伏し、御疲れ奉察、最早緩々御休
息被遊、御宿入ニハいまた御早く御座候とて一礼して控
ける。此節ハ御同勢も人足共五十人計。当村弥左衛門御
人足に被召連、御賄方御世話申候由承る。暫くありて御
立故、村はつれ迄御送り申上、一礼して帰りぬ。
 明れハ端午の節句とハな(り脱カ)ぬれと、平常の心地もせん(すカ)。
旗幟の類も延引にて、児童の礼もまれ〳〵にそありける。
誰あつて節句の用意もなし。実に哀の有様なり。
 洪水後ハ、犀川水流来けれ共、三堰口も跡方もなく押
流し、水溢れ後ハ川式(敷)もさたかならすして、雨降り出水
の折ハ川端通り村々ハ、自由に押流れけるよし。よつて
洪水の後ハ急水除土手御普請有之。日々遠近之人足出精
致し、三堰も流水しける様との厳命にて、御奉行様・諸
御役人方、御詰越切のよし。十五日頃より、中堰・下堰
流水致し、漸々飲水自由ニて村之人安堵致し、是にてハ田
作も仕付ニ可相成与御上様之御恩を思ひしるやうになり
ぬ。
 十三日は尽七日の事なれハ、縁者之方災難にあふて死
せし人々あれハ、亡あとを弔ひ、悔をも可申述与、早朝、
瀬原田姉の方より稲荷山従弟の方へ至り、帰るさに、し
のゝ井へ立寄休息して、夕方御幣川姑の方へも立寄、諸々
江変災の見舞致し、帰るさに、長土堤のほとりにてつら
〳〵廿四日の夜の災難にて亡し人や、十三日夜の溺死の
人の事を思ひ出してあわれを催し、今日ハはや尽七日。
魂魄此土にありて冤を恨ミんもはや今日限りなるかと西
山の方を咏やりけるに、十三日は常にかわりて夕陽かゝ
やき、日の御入の後ハ紫雲天に満けり。いかにも死亡の
人の助りて成仏せしならんと独りつふやき、称名念仏し
て除歩し帰りける。当村の入口荒地曠々として、暮合頃
ハ途を失ふ計におもひ、あしをはやめて、我家に帰りぬ。
出典 日本の歴史地震資料拾遺 5ノ下
ページ 626
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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