[未校訂]第二十二章 島原大変と布津村
一、島原大変
思い起こせば寛政四年の大地変は前年の寛政三年の秋
口から島原半島に群発地震が発生した。翌けて寛政四年
の新春もその活動は止むことなく断続的に続いた。
遂に一月十八日、山は噴火し火口から大小の小石や土
砂を噴きあげた。更に溶岩を噴き出し溢れ出た溶岩は山
の斜面を伝い杉谷村の千本木附近まで流れ下った。住民
の驚きはいかばかりであったろうか。そして三月に入る
と突然山が鳴動して、嘗って経験したこともないような
大地震が起きた。その激動に人々は恐れおののき我先に
と近郊の村々に避難したがやがて又山も静かになったの
で人心は落ちつき、再び人々は城下町のわが家に戻って
きた。ところが一安堵する間もなく四月朔日、遂に来る
べきものがきた。
百雷が一度に落ちたような大音響、まるでこの世でも
ない天変地異の大地震が勃発した。この寛政四年の島原
大変について、金井俊行の「島原地変記」には次のよう
にしるしている。
「……四月朔日暮六ッ時分に前山震動し大地震両度致
し候間、人々大変にをどろき入り家よりかけ出る人もあ
り、内にて打ち伏す人もあり、外へ出たる人は内に入る
まもなく、家押しつぶし津波打ちあげ、家並びに人牛馬
共に流れ失せたり
三月朔日劇震の後、毎日地震ありと雖も度数大いに減
じ已に数十日を経るも格別異変あらざりければ、このま
ま鎮静して平常に、復するならんと、人皆想像したりし
になんど量らん 前山俄然破裂せんとは、此日暮後強烈
なる地震二度重ね至り、百拾の大雷一度に落ちるが如し
天地も崩るるばかりの響きあり、なれば諸人大いに驚き、
家中(藩士)は直ちに登城したれども何の変たるかをし
らず暫くして闇の中に号泣叫喚の声を聞くやがて血に染
み泥に塗られたる市民逃げきたり、家中の驚き藩庁の混
雑常ならず、天ようやく暁に及びて、前山の破裂の状を
見るに、諸人の驚愕岩に譬るにものあらんや
天狗山は東方反面破裂し飛散し、その跡屛風をたてた
るが如く、白赤の焼岩は絶壁の状を呈したり、島原の港
は埋まりて権現山に連続して砂漠となり、丘陵地沿は各
地に散在し数十の島々は新に海中に散布し、昨日の景況
は夢と変じ実に桑滄の変たり……」
全く一夜にして島原の城下町は見るも無残な死の町と
化した。この前山(眉山)崩壊と大津波の被害による死
者は、その後島原藩庁から幕府へ報告された書面による
と次の通りである。
流死 怪我人(島原城下町)
扶持人(藩士)流死 五七六人
町 流死人 八八三五人
出家流死 三九人
山伏流死 一〇人
盲僧流死 四人
怪我人 七〇七人
その他 六七人
島原半島村々の損害として
島原村 今村名その他不残山に
埋る
その他海辺
安徳村 北名不残山に埋る
その他海辺
深江村 海辺人家
布津村 海辺人家
堂崎村 海辺人家
以上同じ
南有馬村海辺人家
南方被害此村大江崎に
止まる…………………
二、布津村と大変
藩制時代、布津村の庄屋職は代々田浦氏で田浦家に保
管された系譜録(田浦歓二氏所蔵)に島原大変のことが
記されている。大変当時の庄屋職は田浦家六代田浦重雄
氏(後に長平治と改名)である。
「島原地変記」に記載されている(布津村の大変)の被
害は、海辺人家とあるが、海岸に面した高塩、潮入崎・
野田浜一帯が特に津波の襲来で、ひどかったようである。
大崎鼻沖合の津波は島原大変中最高の潮位であった。そ
して津波の高さは二十五M~三十Mともいわれている。
又当時の流死人は百五十九名、家屋流失八十八軒、牛馬
流失四十九匹……
更に系譜録には隈部平太郎のことが記されているが、
その項には「寛政二年戌四月、御城下有馬町別当隈部勝
五郎の養子となる。廿一才養家先の娘の夫として、同月
嫡子願相済ませる。領主様にお目見え候処、寛政四年子
四月朔日、津波大変の為一家不残流死
法名 鳳毛祥瑞居士 行年二十三
破顔妙笑信女 妻十七
隈部氏家内五人 五月七日田浦にて葬式勤め円通寺墓
地へ葬る……」と、田浦重雄氏の二男平太郎が島原城下
町の別当隈部勝五郎の娘を妻として隈部家に養子入りを
したのは二十一歳で妻が十五歳の時であった。
寛政四年の島原大変は、それから二年後のことであっ
た。
寛政四年の大変は前年から郡発地震が続発したが、特
に三月の地震があまりにも強烈であったので平太郎夫婦
は身の危険を感じ一時平太郎の生家である布津村の田浦
家へ避難したが、やがて地震も止み平静になったので、
再び島原に帰ったところ、二日目に四月朔日の大地震が
起きた。平太郎夫婦はその渦中に巻きこまれ、養父養母
共々波にさらわれて行方不明、隈部家は全滅した。布津
村の父田浦重雄はその訃報を聞き、深く悲しんだがその
死があまりにも、あわれであったので布津村円通寺田浦
家の墓地に墓を建てこれを供養した。その墓は現在田浦
家累代の石塔と並んで建っている。そしてその墓の側面
には隈部氏者有馬町町年寄代々致相続釆(ママ)而勤功不薄雖然
無嫡子而布津村荘官田浦氏二男以平太郎為家督以相続致
嫡子而日夜愛情虚不己四年也 然寛政四壬子四月朔日日
暮時依山崩洪波之大変而隈部氏一家中同時溺死 依之於
円通寺後園致合葬者也
と、平太郎と隈部家大変受難のことが記されている。
又円通寺墓地、潮入崎墓地には、この地震によって流
失した布津村出身の供養碑が数基建てられている。何れ
も寛政四年子四月朔日と地変の期日が明確に刻まれてい
る。