[未校訂]1 正徳四年の大地震
小谷地方は比較的地震は少ない地方であるが、江戸時
代には大きな地震がいくつかあった。正徳四(一七一四)
年三月十五日に起きた地震は、今までに無かった大地震
であったと思われる。
次の古文書は白馬村大出で見つけたものであるが、小
谷にも関係があるので記載する。
覚
正徳四年甲午三月十五日の夜の戌亥刻に 大地震ふる
い 明けて十六日昼四ッ時まで三三度震い申候 然し
て何と信州の内 大いに震い申侯
四ヶ条(庄)村 小谷村まで皆々震い崩れ候て 何と人数五
四人死に申候 家数三五捨軒つぶれ申候 牛馬数は知
れず 同所坪の沢にて大山抜け 此の山高さ四二捨間
横幅百間の山 崩れ申候 河表 河原ともに二五五間
の所堤み申候 然して何と大堤みに罷成り此堤坪の沢
より塩島新田迄二里堤み申候
同月十八日の晩に此の堤払い申候 一里が間皆押ぬけ
申候 同じく下へくだり 土路崎(泥崎)と申す所 又
堤み申侯 此の堤はわずかにて候て払い申候 山々
皆々われくずれ申候
午の五月二十三日
御奉行所
(白馬村 内川氏文書)
これは地震の様子を書いて報告したものの下書きであ
ったと思われる。
また、この地震について小谷の庄屋より大庄屋へ報告
した控がある。
正徳四年三月地震につぶれ申村々
中谷分 宇中(雨中) 二軒
来馬分 宇中 四軒
来馬分 宮本 四軒
土谷分 下り瀬 六軒
〃 吉尾 三軒
〆 家数十八軒
右の通り地震にて家居つぶれ姫川へ押出し 流れ申候
其後又右家屋跡に家作り 右の通り御百姓仕候 以上
享保九年六月
小谷庄屋共
(中谷 太田清輝氏蔵)
この地震については松本藩において編集した『信府統
記』にも書いてあるが一〇年も経てからの本であるので、
数が一致しているとは言えないが紹介する。
坪の沢 人家 田畑 残らず亡所となる
人数三十人 牛馬八疋 家九軒退転
堀の内村 家四八軒潰れ 人十四人 牛馬三六疋
中谷村分 宇(雨)中家二軒 来馬村分 宇中家六軒
同村分 宮本家四軒 土谷村分 下り瀬家六軒
同(ママ)村分 虫尾家三軒
以上の様に記載されている。
下里瀬以北のことは書かれていないが、これだけの大
地震では多くの被害が出ているものと思われる。