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項目 内容
ID J3200192
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔伊豆~九州〕
書名 〔宝永四年・安政元年村の大地震・大津波〕米水津の歴史を知る会米水津古文書勉強会解読・編H16・2月 米水津村教育委員会米水津村大字浦代浦発行
本文
[未校訂](宝永四年十月高潮の記録米水津組浦代浦)○佐伯市成松庄屋文書・高宮昭夫蔵
宝永四亥年高潮の記録
一[宝永|ほうえい]四[亥|い]年十月四日昼の八ツ時ニ
南の方おびただしく鳴り時を不移
大地震致して、[家内|やうち]壱人も不居立
退候處、又、無程同時の下刻ニ波
浦中ニ打渡シ、浦白は一面湖の
ごとく相見へ申候て、色利浦は[田の尻|たのしり]
より[泥|どろ]立、其儘にごり、皆人出んと
思候所ニ沖より網さわぎ帰ルを見候處
波先ニて少々相見、汐差込事
限りなく、浦々家財屋敷共ニ
畠迄も流申候、浦白は養福寺
迄も汐差込程ニ御座候處、仏神の
御加護ニて御座候哉、[石壇|いしだん]二ツ[計|ばかり]
残り申候、色利浦は[尾花|おばな]の山、[峰押|みねおし]
の山八合迄汐差込申候、[東(風)網代|こちあじろ]は
[廣岡|ひろか]の山、[本谷|ほんたに]は尾花の下迄、
又、峰押の下は[坂口|さかぐち]迄汐みち申候、
[西谷|にしだに]は廣岡の下[墓原|はかはら]迄汐差
込申候、色利浦ニて人弐人死ス、
浦白ニて
拾八人死ス、小浦・竹野浦ニては死人なし、
其日北風少吹、[克|よき]なぎニて、成程暖
成[日寄|ひより]故、色利浦は[関網|せきあみ]ニ流
寄、其夜ふけて西[嵐|あらし]ニ成候處、
家拾軒計沖え流出候、浦白・竹野
浦の家は皆[大形|おおかた]、ほそ[越間浦|こしまうら]へ
流さる、[荒々|あらあら]は[大灘|だいなん]ニも出申候、
又、宮野浦は高汐ニ家浮候とて
其[儘|まま]網をおきまわし候故、所々
家財少も流不申候、あまつさへ[外浦|ほかうら]
の道具迄流寄候、其日より翌
年迄漁事なく、皆々[難義|なんぎ]致候へ共、
宮野浦は浦からよし、殊ニ其時の損
なき故、宝永五年子年中迄も
替りなし、色利浦・浦白浦は汐も
[大分|だいぶん]外浦よりみち[地畠|じばた]迄流候故
難義致申候、左様成時、宮野浦の
しわざ皆人ほめけり、
其[往昔|むかし]百年以前も[ケ様成|かようなる]汐満
申候事、年寄たる人皆[咄|はなし]ニ[承|うけたまわり]候間
[能々|よくよく]心の用心可有候、其時は皆
人死有レは、家財なきゆへ少の物取
あけず、日数立候得は、皆諸事道具
入用ニ候得共、不自由ニ成申候間、常ニ
諸道具取あげ、心の用心可在
事也、
一其時の高汐ニ[土佐|とさ]・[阿波|あわ]・[熊野地|くまのじ]・
大坂迄高波ニて大破損御座候、
佐伯は[下浦|しもうら]ニて蒲江浦・[丸市尾|まるいちび]浦
[大破|たいは]ニ及申候、又、中浦は大嶋より蒲戸
迄少も破損なし、[代古浦|だいごうら]より[靏谷|つるや]・
[堅田|かただ]・[木立|きたち]村迄[新地大分|しんちだいぶん]つふれ
申候て、皆々難義致候間、大地震致候
得は能々心を付用心可有候、且又、
[火難|かなん]の節も常々の用心専一ニ
御座候間、為其書記申候、以上
(荒々=あらまし 大灘=沖合い 浦から=浦柄・地形)
(旧記の写)色利浦文書色利浦塩月新蔵
頃ハ宝永四年亥十月四日(1707、現歴10月28日)
午ノ□□八ツ時(午後2時)頃に、南の方
夥しく鳴リ、時ヲうつさず、大地震
致し、家ノ内に居リいず立ち出候処、又、
同時ノ下刻(午後3時)ニ田ノ尻より泥立ち、波浦中打
渡し、其まヽにごり、皆人如何と思ひ
候処、沖より網さわぎかえりしを
見候処、波さき少し見へ、汐さし込事
かぎりなく、浦々家財畑共にながれ、当浦
の者ハあるひはハ色利・中村、すか崎の者ハ、皆
尾鼻の山に逃はしりのぼり、又、庄屋与七郎
殿ハ子供衆引つれ、むねおしの山八合
目迄登り玉ふ、[東風網代|こちあじろ]の者ハ[廣岡|ひろおか]の山の
上にあがり候、汐みちさきハ[本谷|ほんたに]ハ[尾鼻|おはな]の下迄
にさしこみ、又むねおしの下ハ坂口山ノ下
迄汐みち、[西谷|にしだに]ハ廣岡の[墓原|はかはら]迄、汐さし
こみ申候、当浦にて人二人死ス、一人ハ平
五郎下人、太郎治と申し、年五十歳[計|ばか]りなるもの、
又一人ハ与兵衛下人庄吉と申者、宮ノ浦
吉右衛門方にて死す、年廿歳計りなるもの、浦
代にては十八人死す、小浦・竹野浦には人じにハなし、
其日北風少し吹き、[能き|よき]なぎにて、成
程あたゝかなる[日和|ひより]故、地下ノ家ハ[関網|せきあみ]に
ながれより、其夜ふけて[西嵐|にしあらせ]になり、
家拾軒計り沖に流れ出候、浦代・竹ノ浦・小
浦の家ハ皆大かた、[細越間浦|ほそこしまうら]へながれ
あがる、あらあら大なんにも出る、又、宮の
浦ハ家浮き候と云、其儘、網おきまわし
候故、所々家財少しも流れず、あまつさえ、外浦の
道具迄ながれより候、其日より翌年中
漁なく、皆難儀致し候へ共、宮ノ浦
ハ浦がらよし、殊に其時の損なき故、
子年迄かわりなし、地下ことに浦白ハ、汐大
分、外浦よりみち、地畑迄なし、難儀致し、
左様なる時、宮ノ浦のしわざ、皆人誉めけり、其昔
百年以前も、か様なる汐みち候ヲ年寄
たる人皆申され候間、能々心に用心
あるべき候、其時ハ皆人死故、或ハ家財
なき故、少しの物取あげず、日数立候へ
バ、皆諸事の道具入用ニ候間、よくよく心
に□□□申すべし、
其時、高汐に土佐・阿波・熊の浦・大坂迄高汐、
佐伯は下浦ニてハ、蒲へ浦・丸市尾など大崩れ、
又、中浦ハ大嶋ヨリ蒲戸迄、少しも痛ミなし、
代後浦ヨリ鶴谷・堅田村・木立村迄新
地[大分潰れ|だいぶんつぶれ]し故、皆人難儀致し候間、
大地震致し候ハハ、よくよく心付
用心これあるべく候、其ため書記し
申候、以上
宝永五年子十一月廿二日書 色利浦住人持主
次郎兵衛
右の旧記ハ米水津村大字色利浦
三百五十六番地、平民塩月逸平家、先祖の筆記セシヲ
現今所持シタ
ルヲ写シ参考ニ備フ、
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 5ノ上
ページ 130
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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