[未校訂]万治二年の田島地震
会津は地震の少ない所ではあるが、長い
歴史のうちには慶長十六年の会津盆地一
帯に被害を与えたような地震がある。この時田島方面に
被害はなかったが、万治二年(一六五九)二月晦日巳刻
というから午前九時~十一時に田島町を中心に嘗てない
地震があった。家数一九七軒・土蔵三九棟倒壊、死者男
二人・女六人、負傷者男女合わせて七九人、馬も五疋で
ある。これは御蔵入奉行諏訪十左衛門の改めた被害状況
だから信用できる数字であろう。なお若松城下では城も
侍屋敷も郷村も被害はなかったというから田島から山王
峠にかけて大きく揺れたようである。
山王峠の普請
山王峠も道が崩れ、街道の往還が難渋する
ようになった。道筋を取りかえようとした
が、嶮しくて適当なルートも見つからず、旧道を「岩を
切広め、狭い所へは[桟橋|かけはし]をかけ、所々に馬除け」をつけ、
約五〇〇〇人くらいの人夫を投入すれば通行可能の見積
書が出された。藩では御蔵入領の百姓を人足としてかか
ろうとしていた所三月十三日の雨で、峠道二、三カ所崩
れ、これでは先の見積り以上の規模で普請にかからねば
ならず、それならむしろ、下郷町松川通の新道を開いて
主街道に格上げした方がよいのではの案が藩に出た。し
かしそれには南山通り、勢至道筋の白河街道の輸送に関
わっている者達(問屋側)が強い反対を出した。松川通
は江戸までの距離は最も近いので藩では有利に見えた。
しかし幕府老中までの意見統一に至らず、旧道筋改修に
決まった。経費は人足六六四〇人、大工一七一人、鍛冶
五六人の見積りであったが、岩質が脆かったりしたので、
はるかに少ない経費で、しかも旧道よりよい道に復旧す
ることができた(『家世実紀』2『町史』6上五九八ページ)。この後山王峠は
何度も修復を加えながら、近世を通じてのメイン街道で
あったが、ただ次に述べる天和の地震による五十里湖出
現の四〇年間は街道に大きな打撃を与えた。