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項目 内容
ID J3000142
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1680/08/29
和暦 延宝八年八月六日
綱文 延宝八年八月六日(一六八〇・八・二九)
書名 〔東路記〕貝原益軒著新日本古典文学大系98「東路記・己巳紀行・西遊記」一九九一・四・一九 岩波書店発行
本文
[未校訂]板坂耀子校注[吉原|よしはら]一六の町、延宝八年の[比|ころ]、[海水|かいすい]あふれ[民屋悉崩|みんをくことごとくくづ]る。是、
世俗に津波〈ツナミ〉と云也。町の人は富士のすそのの[方|かた]へにげて命
をのがれぬ。[其後|そののち]もとの町ありし所、地ひきくして[重|かさね]て水
災あらん事をおそれて、十町ばかり北へあがりて今の町を
立し也。[其故|それゆえ]に原の方へは十町ばかり遠くなり、[神原|かんばら]へは
十町ばかり近くなる。○吉原の町より七八町北、富士のす
そ野に[今泉|いまいづみ]といふ村あり。此村一七に五郎右衛門と云[大百姓|おほびやくしやう]
有。天性父母に孝あつく、他人にも慈愛ふかく、[善行|ぜんかう]多き
事、あげてかぞへがたし。其父先年死けるが、其所のなら
はしにて、父死すれば家富〈トミ〉たるものはかならず葬〈ほうむり〉のともに
[其|その]家の馬をひかせ、すぐに寺につかはす。五郎右衛門も其
父の馬を葬礼の時ひかせけるが、父の[平生|へいぜい]乗たる馬を他人
の手に渡さんも[不便|ふびん]なりとて、其馬のあたひより多く[金子|きんす]
を寺へつかはして馬を取返し、むま屋を別に新しく作りて
其馬をたて置、数年の後、馬病死するまで、のらずつかは
ずして飼置し也。吉原の町に津波上りし時、五郎右衛門が
家に大釜を七ツあつめ、飯を多くたきて、吉原より海水を
さけてのがれし家〻につかはし、いづくよりともなく其飯
を置て帰る。かくのごとくする事久し。此時、吉原の町の
者は、五郎右衛門が養ひにて命をたすかると云。又、[其比|そのころ]
海水あふれしゆへ近国の浜に塩なかりしを、五郎右衛門船
に乗て上方へ行き塩を多く[買来|かひきた]り、家人を多く[塩商人|しほあきんど]のご
とくして[彼津波|かのつなみ]のあげし村〻の家〻につかはし塩をうら
せ、其あたいをば[重|かさね]てとりに来るべしと云はせければ、久
しく塩にうゑたる家〻悦て是を取る。[日久|ひひさ]しけれ共、其塩
のあたいをこひに来らざれば、みないぶかしくおもひけ
る。後によく聞てこそ五郎右衛門がほどこしなりとはしり
たりけれ。凡、人に物をほどこして其名をあらはす事を
〈およそ〉このまず、陰徳多し。

一六 「此駅はじめは、東南(たつみ)のかたにありしかど延宝
八年の秋、津涛(つなみ)の為に家屋漂流し、人馬多く溺死
なすをもて、天和二年、今の地に替る」(風景)という。
一七 板本では、五郎右衛門に関する記事は、削除されてい
て、存しない。また、管見の他の紀行にも、「舟より上
りて行ば、今泉村見ゆる。孝子五郎右衛門が事など、子
鳳が語るを聞てゆく。今に多くの田畑を作り取になし、
富家なりといふ。物語いろ〳〵あれど、事永ければ是を
略す」(真多念之夢・天明五年)以外には見えない。な
お、芭蕉・おくのほそ道の仏五左衛門も同様だが、太平
の世への賛美をもこめて、このようなすぐれた人物の
存在を紹介しようとする傾向が、近世の紀行文には時
に存するようである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上
ページ 52
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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