[未校訂](濃尾地震と名古屋城)日比野元彦著
(前略)
◆
濃尾地震に関する資料を蒐集するなかで、名古屋市内
の被害状況に注目した。愛知県と岐阜県の被害を比べて
みると、死者は岐阜県五、一八四人・愛知県二、六三八
人、負傷者は岐阜県一三、三六五人・愛知県七、七〇五
人、住宅の全壊は岐阜県五二、六九〇戸・愛知県三九、
〇九三戸(『愛知県被害地震史』)で、岐阜県の方が被害
が大きいことがわかる。これは岐阜県に震源地があった
ことがまずあげられるが、愛知県の場合、死者の多くが
木曽川堤防付近の住宅の倒壊による圧死者で、この地域
は住宅基盤の土壌が軟弱であったことが被害を増大させ
たのである。また、名古屋市内での犠牲者の多くが煉瓦
石造の近代建築の倒壊によるものであった。名古屋郵便
電報局のごとくは、「発震スルヤ瞬間ニシテ、囂然崩潰シ、
其ノ鳴響四隣ニ轟キ砂烟天ヲ蔽ヒ」(『明治二十四年十月
二十八日愛知県震災録』)というありさまであった。また
熱田町大字尾頭にあった尾張紡績会社も煉瓦石造の壮麗
なる建築であったが、これも瞬時に倒壊して三八人の犠
牲者と多数の負傷者をだしている。これらに共通して云
えることは、煉瓦石造の近代建築といえども、耐震設計
が十分にされていなかったことである。ところが岐阜県
における被害の増大は、火災によるところが大きい。名
古屋では三か所から火の手が上がったものの、いずれも
大火にいたらずして鎮火している。一方岐阜県では岐阜
市と大垣市で火災被害が大きかった。岐阜市内では、「市
内悉く火となり、最早全街を焼き尽くすにあらざれば、
鎮火の見込なき」(『岐阜日日新聞』)、また大垣市内では
「大震動ノ為メ崩潰ノ家屋ハ、市街ノ九分ニ至リ、圧死
者無数、市街四方ニ発火シ、市街七歩ヲ消失セリ」(『濃
尾地震写真資料集』)という状況で、火災による焼死者の
数も多かった。
◆
名古屋市内の建築の被害で、名古屋城の詳細な被害状
況を知ることができる資料を見いだしたので、ここに紹
介しておく。この資料は国立公文書館所蔵の公文雑纂中
の第三師団監督部が作成した「震災破損調書」の一部で
ある。この当時、名古屋城は内堀のなかの天守閣を中心
に、その内堀と外堀の広い敷地が第三師団の要地であっ
た。ここには第三師団司令部・第三師団監督部が中央
に、その裏手には第三師団軍法会議所があり、道を隔て
て東側に歩丘第六連隊が、西側には名古屋衛生病院・名
古屋陸軍予備病院があった。また司令部の前の道を隔て
て、その南側には中央に歩兵第十九連隊・野戦砲兵第三
連隊が、道を隔ててその東側には騎兵第三大隊が、西側
には輜重兵第三大隊・輜重第三大隊輜重廠・工兵第三大
隊・名古屋陸軍病院仮病室があった。司令部の建物は当
時煉瓦構造でなかったけれども「大破シテ開庁執務スル
能ハス各兵営ノ全倒一三棟半倒一棟大破二百八十五棟」
(『震災記録』愛知県警察部)の被害がでている。
次頁の写真は、名古屋城の本丸、表二ノ門付近の被害
の状態を撮影したものである。土塀の白壁に随所にひど
い崩れや亀裂が写しだされている。「小天守ハ基礎及ヒ壁
ニ損所ヲ生シタルモ外郭ノ石垣ハ異状ヲ見ス天守閣ニ於
テハ更ニ何等ノ異状ナシト云此回ノ大地震ニ少シモ異状
ヲ見ス古人カ土木ニ心膽ヲ凝ラシタルコト想像ニ余リア
ル」(『震災写真説明書』愛知県警察部)と、濃尾地震で
も倒壊を免れた名古屋城の天守閣の建築の確かさを語っ
ている。
震災破損調書 第三師団監督部
名古屋城
天守外部壁 破損 八百二拾二坪
同屋根瓦 同 拾坪
小天守外部壁 同 三百七拾五坪
同 屋根瓦 同 五坪
旧殿玄関東側附家転倒 一ヶ所
同大廊下柱及梁傾斜一寸 一ヶ所
同 屋根瓦 破損 拾坪
同 襖及張付 同 百四拾一枚
同 内外白漆喰壁 同 二百五拾三坪
旧金庫屋根瓦 同 三坪
旧文庫壁 同 三拾六坪
同 屋根瓦 同 三坪
三番倉庫壁 破損 六拾坪
同 屋根瓦 同 拾坪
一号未申隅櫓下層錣付出シ家共破壊 三間半四尺
同内外壁 破損 百三拾八坪
同 屋根瓦 同 拾二坪
二号辰巳隅櫓内外壁 同 百八拾坪
同 屋根瓦 同 四坪
三号丑寅隅櫓錣屋根角破壊 一ヶ所
同内外壁 破損 百八拾坪
同 屋根瓦 同 拾八坪
多門内外壁惣体大破損 二千八百八拾四坪
同西北隅石垣孕出シ為メ八寸下ル 拾間
同南方櫓門ニ接続スル部分石垣ト共ニ転落桁行拾三間半
梁間 三間
濃尾地震で罹災した名古屋城
同 屋根瓦破損 三拾坪
表一ノ門櫓門 門上櫓北部多門ニ接続スル部分多門転落
ノ為メ共ニ破壊残部傾斜 五拾二坪
東一ノ門東櫓門内外壁破損 九拾三坪
同西部多門ニ接続スル部分ニテ五寸破裂 一ヶ所
同屋根瓦 破損 五坪
旧湯呑所及廊下屋根瓦 同 拾五坪
同渡リ廊下小損 一ヶ所
厠及廊下屋根瓦破損 一坪
同渡リ廊下転倒 一ヶ所
榎多門内倉庫入口庇転倒 二ヶ所
同壁 破損 百三拾二坪
同屋根瓦 同 二拾坪
成ママ番宅屋根瓦 同 三坪
衛兵所屋根瓦破損 五坪
同附属厠転覆 一棟
分遣衛兵所礎石ト土台ト居去ル五寸 一棟全部
同屋根瓦破損 五坪
南一ノ門全部五寸北方へ傾斜 一個
同西袖塀傾斜 二拾二間
榎多一ノ門全部三寸北方へ傾斜 一個
同両袖ノ土塀崩壊 二拾八間
城内釣塀転倒 八間
明治廿四年十一月九日
(国立公文書館・「明治二十四年公文雑纂十五」)
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前頁の写真は、『濃尾震災写真帖』(名古屋市博物館所
蔵)のなかの一枚である。この写真帖は名古屋市本町三
丁目の写真師宮下欽自身が撮影した写真四〇枚を選ん
で、アルバムにまとめて販売したものである。この写真
の説明文と考えられるものが、地震がおこった翌々月に
だされた『明治二十四年十月廿八日震災写真説明書」(愛
知県警察部)のなかにある。それによれば、「城内ニテハ
茲ニ写セルヲ重ナル破損ノケ所ニシテ右方ノ石垣ハ大崩
レアレトモ写面ニ見ヘス白壁ノ内黒色ノアル処ハ震災ノ
為メ損シタルモノナリ」とあり、瓦・壁・石垣の破損が
とくに大きかったことは、先の被害状況を詳細に記した
『震災破損調書』とオーバーラップする。
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建築師佐藤勇造は『地震家屋』(明治二五年四月、秀英
舎出版)のなかで、濃尾地震の震災地をくまなく踏査し
た上で、この地震で倒壊しなかった建築物について分析
し、耐震家屋を考えるきっかけとなった。また、明治二
五年六月には、加藤弘之帝国大学総長を会長として、地
震の総合的研究体制ともいうべく震災予防調査会が発足
した。
このように濃尾地震は、地震学者ばかりでなく建築学
者もふくめた多くの学者を、地震の総合的研究に結集す
ることとなった。また国民も地震に対して、強い関心を
もつようになったのである。