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項目 内容
ID J2900122
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1668/08/28
和暦 寛文八年七月二十一日
綱文 寛文八年七月二十一日(一六六八・八・二八)〔仙台〕
書名 〔国史談話会雑誌第41号〕二〇〇〇・十二・一東北大学国史談話会発行
本文
[未校訂](発掘で知る、仙台城本丸……出土遺構と遺物から)金森安孝著
はじめに(略)
一 文献にみる地震と石垣修復
 仙台城の築城(普請=土木工事)と補修については、
『伊達治家記録』や仙台市博物館に収められている幕府
老中奉書などの史料と、各種の絵図によって知ることが
できる。
 大阪夏の陣以後、幕府の体制強化は、「元和偃武」とい
う言葉に表されるように、武家諸法度の規定によって、
城郭統制にも色濃くあらわれ、各藩は城郭の新改築の際
に厳しい規制を受けるようになっていく。
 仙台城においても、正保四年(一六四七)の幕府から
の老中奉書を嚆矢として、以後の城普請については、仙
台藩からの詳細な普請窺(控)や幕府の許可である老中
奉書によって、その概略を知ることができる。
 江戸時代前半、特に十七世紀代は地下の活断層が活発
に活動した時期であったらしく、各種の史料に地震被害
が記されている。仙台城においては、城下では被害が少
ない地震でも、本丸の被害が大きいことが度々あって、
青葉山の先端部に位置する本丸の立地に、「直下型地震」
に弱い特性がみられるようである。
 今回の修復工事の対象となる本丸北壁石垣に被害を及
ぼした地震としては、元和二年(一六一六)、正保三年(一
六四六)、寛文八年(一六六八)、享保二年(一七一七)
の四回の地震があって、石垣崩壊や櫓の倒壊に関する記
録が残されている。
 元和二年七月二十八日の地震では、「石垣・櫓悉ク破損」
という被害状況が記され、本丸にはすでに石垣や櫓が備
わり、かつ、慶長年間に大広間や御崖作(懸造)が完成
している記事もあることから、元和年間には築城期の仙
台城として本丸が完備していたものとみられるが、この
地震後の修復については具体的な史料が残されていな
い。ただ単に史料が残存していないだけなのか、この時
期には幕府の城郭統制が各藩まで徹底していなかったた
めに「届出義務」が強くなかったからなのか、詳細な検
討が必要であろう。
 正保二・三年に作製された「奥州仙台城絵図」には、
本丸には五棟の櫓が描かれており、先の元和地震で破損
した櫓や石垣は、この時点では「再建」もしくは「修復」
されていたことが確認できる。
 正保三年四月二十六日の地震では、本丸の建物群が受
けた被害は、「三棟」の三重櫓が倒壊するなど甚大であっ
たが、石垣の被害については詰門西側が主であるが記録
があって、詰門より東側の石垣の大半は崩壊を免れ、元
和地震後に修復された石垣はそのまま、崩れ残ったもの
と考えられる。
 寛文八年七月二十一日の地震による石垣の被害状況
は、『肯山公治家記録』の中に詳しく記され、地震直後に
記された「本丸石垣破損覚」には石垣の崩壊範囲や規模
が明確に示されている。それによると、本丸北面石垣の
約九十六%、約二千六十平方メートルが崩壊し(「崩 坪
数五百三十六坪」、 一間を六尺五寸と換算)、崩れ残った
西脇櫓より西側の石垣も大きく「[孕|はら]み出」して弱い地震
でも崩れそうな様子が記され、辛うじて崩れ残った石垣
は、わずかに詰門脇の六坪と「東築留」の十六坪だけと
いう惨状であった。
 寛文地震における石垣の被害は、正保地震とは逆に本
丸詰門より東側に集中しており、酉門・御掛作・中門(寅
門)等の石垣にも被害の記載があることから、仙台城全
体としての被害は先の正保地震をはるかに上回る、甚大
なものであったことが理解できよう。石垣の修復範囲は
約八百六十坪(約三千三百平方メートル)に及び、地震
によって崩壊した東側と変形した西側を含め、本丸石垣
のほぼ全域が対象となる全面改築(「築直」)が行なわれ
たようである。発掘調査でも、石垣背面の盛土からは、
二メートル以上ものズレを有する、地震によって発生し
たとみられる「スベリ跡」を数ヶ所で確認し、被害の大
きさの一部を覗い知ることができる。
 藩では、地震直後の寛文八年十月に普請窺を幕府に提
出しているが、この修復に対しての幕府の許可書となる
老中奉書は、寛文八年十月十二日付と、地震から五年後
の寛文十三(一六七三)年九月十五日付の二通があり、
石垣普請が許可された後、少なくとも五年間は工事が「停
滞」または「継続」されていたことになる。石垣崩壊か
ら修復完了までにこれだけ長い期間を要したのは、この
寛文地震による普請が唯一であり、他の修復工事と比較
して特筆される。修復規模の大きさもさることながら、
この時期は寛文十一(一六七一)年に起こる寛文事件(「伊
達騒動」)の前後にあたり、仙台藩の政治的混乱が石垣修
復工事に影響を及ぼした可能性も考えられよう。
 その後、享保二年四月三日の地震で東脇櫓付近の石垣
が損壊した記録があるが、部分的な崩壊であるとみられ、
大規模な修復工事の痕跡は、現在、調査で確認できてい
ない。
二 絵図に描かれた本丸石垣
 仙台城を描いた絵図には、幕府に提出された「幕用図」
と、藩が独自に使用する目的で作製した「藩用図」が多
数残っているが、そのうちの四鋪で、文献に記された本
丸石垣の変化を読み取る作業を行ってみたい。
① 「奥州仙台城絵図」(斎藤報恩会蔵)
 現在、残存する絵図の中で最も古く、正保二・三年(一
六四五・六)に作製され、城と城下の全体を一体的に描
き、正保地震以前の仙台城を描いている。本丸部分を見
てみると、各種の門や多重櫓、石垣、塀を写実的に描き、
堀切や井戸の位置も記している。また、本丸の広さや町
屋との標高差、石垣や塀、土塁の長さや高さ、大手門か
らの距離など、実測値を随所に記入している。城の規模
を数値情報とともに描いた、唯一の絵図である。幕府が
城郭統制の一集大成として、もっとも力を入れて仙台藩
に作製させた幕用図とみられ、その後の「基本図」とな
る、正確かつ公式な絵図である。
 本丸北壁には三基の櫓がそびえ、石垣の形状は不整形
の石材を用いて鈍角に折れ、石垣天端と艮櫓基部には漆
喰塗りの狭間塀が巡る。
② 「仙台城下絵図」(宮城県図書館蔵)
 寛文四年(一六六四)に作製された絵図で、本丸の建
物群を写実的に描く唯一の絵図である。正保三年地震で
倒壊したとされる櫓は、輪郭だけが描かれ、「櫓場」は方
形には描かれず、五角形や菱形を呈している。石垣の形
状は「正保絵図」と類似するが、地震で崩れた詰門付近、
東西脇櫓部分の石垣の描写が変化している。東側の崖際
の石垣は塀とともに欠失し、狭間塀が木柵となって天端
に巡らされている。この絵図は寛文四年段階の本丸の姿
を描き、瓦葺きや板葺きの屋根で表現される建物は、実
存していた建物を描いたものと考えられ、建物の位置関
係や外観を知る上で参考となる絵図である。
③ 「肯山公造制城郭木写之略図」(宮城県図書館蔵)
 延宝五年(一六七七)十二月に、四代藩主綱村が、各
務釆女、青田彦左衛門らに本丸・二ノ丸の絵図作製を命
じ、翌年二月に完成・提出した絵図とみられる。殿舎の
平面形状を詳細に表現しているが、艮櫓や東脇櫓、能舞
台、東側崖部の石垣など発掘調査で確認できない遺構の
記載があり、天守台など実在しなかった建物群の表記も
みられるなど、「願望的復興絵図」とみなしている。
④ 「奥州仙台城并城下絵図」(宮城県図書館蔵)
 天和二年(一六八二)に幕府提出用として作製された
絵図の控で、この後に作製される絵図は、ほぼ同じ表現
となっている。石垣の形状、東・西脇櫓台の表現、実在
しなかった艮櫓や発掘調査で検出できなかった能舞台を
記載しない点など調査成果と整合する絵図である。この
絵図を現況地形図と重ね合わせてみると、石垣や門の位
置・規模が本丸全体でほぼ一致し、他の絵図とは比較に
ならないほど「正確」に測量・描写していることが確認
できる。その後、享保二年(一七一七)地震後に行われ
たであろう東脇櫓付近の石垣修復は、この後の絵図でも
読み取れていない。
三 発掘調査でみる石垣の変遷
 発掘調査成果を略述すると、現存石垣(Ⅲ期)背面で
発見した、伊達政宗による築城期石垣(Ⅰ期)と修復石
垣(Ⅱ期)は、本丸の石垣変遷とともに構築技術の変容
を示している。
 Ⅲ期石垣基部には、大量の瓦や陶磁器などを包含する
整地層があり、石垣の「根切り」(基礎工事)がこの整地
層を掘り込んで構築され、年代の特定できる肥前陶磁か
ら、現存石垣は十七世紀後半以後の修復工事によること
が判明しており、寛文地震後の修復石垣である。
 Ⅰ期石垣は、全長四十メートル、高さ五メートル以上
となり、四箇所で確認している。現存石垣や「正保絵図」
に描かれる石垣とはその位置や方向が全く異なり、絵図
に描かれない縄張(平面プラン)で築かれていることと、
石積み様式から、慶長七年(一六〇二)に「普請出来」
した築城期石垣である。
 これらの石垣の構築にはさまれるⅡ期石垣は、全長二
十三メートル、高さ十メートル以上分を発見している。
文献による石垣修復記録や絵図の石垣形状から、元和地
震で破損したⅠ期石垣を修復した石垣で「正保絵図」に
描かれている。さらに、その後の正保地震にも持ち堪え、
一部を修復した石垣が「寛文絵図」に描かれている。
 石垣構造の特色をみると、Ⅰ期石垣は、青葉山の旧地
形や千代城の曲輪を利用し、尾根や谷に沿って「凹凸」
のある縄張で構築されている。石材は自然石や割石を用
いて、あまり加工を施さない「野面積み」で、四十八度
程度と緩い勾配の「段積み」石垣である。本丸北東部で
は、その天端(石垣の上端)は、北面の現存石垣から十
八メートル、東面で六メートル内側となってくる。
 Ⅱ期石垣は、Ⅰ期石垣を大幅に築き直し、Ⅰ期裏込層
を残置した上で、盛土内に地下水や雨水を導く排水施設
を新たに埋設している。Ⅰ期の石材はほぼ再利用され、
石材の控え(奥行き)を長く、裏込層に深く差し込み、
写真1 築城期の石垣 伊達政宗が慶長年間に築いた野面積みの石垣で、48度と緩い勾
配で段積みされている。
石垣は六十度程の勾配で積み上げられる。石材の表面(石
面)の凹凸はノミではつり取られ、石材の間には割石の
詰石を隙間なく充塡して、「平滑」な面をなす石材を意識
している。本丸北東部では、石垣の天端は、北面の現存
石垣から八メートル、東面で四メートル内側となってく
る。東崖面の市街地を眺める展望台付近で現存石垣の基
部と内側に埋め込まれ、Ⅲ期石垣の構造の一部として、
再利用されている。
 Ⅲ期石垣は、一見して、それ以前の旧石垣とは趣を異
にしている。切石による整層積みは石材の横目地が通り、
地表部には詰石をもたない。切石の加工で発生する屑石
(木端石)を石材の周囲に丁寧に充塡し、石垣の揺れや
荷重に対する「緩衝材」の役割を果たしている。出角は
算木積みで、角石下部にはクサビ・カスガイ状の鉄製「敷
金」が置かれ、石材の角度を微調整した上で、「江戸切り」
とよばれる精加工で出隅のラインを際立たせている。崩
壊を免れたⅡ期石垣は勿論のこと、裏込層や排水施設を
再利用し、Ⅱ期石材も階段状石列として、盛土と裏込層
の境界付近に二十数段、約三千二百石が積上げられ、石
垣背面の「土留め」機能をもたせながら埋設されている。
 Ⅲ期石垣は、旧地形の特徴を熟知した上で、旧石垣や
盛土、排水施設、裏込層、石垣が一体化した非常に複雑
な構造体で、排水や耐震に対して、優れた設計理念に基
写真2 Ⅱ期石垣 元和年間に修復された石垣で、寛文地震で「東築留」として崩れず
に残り、現存石垣(Ⅲ期)の背面を支えている。
づき、管理施工された構造物であるといえよう。(以下略)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 三
ページ 85
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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