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項目 内容
ID J2700505
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1510/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1510/09/21
和暦 永正七年八月八日
綱文 永正七年八月八日(一五一〇・九・二一)〔攝津・河内〕
書名 〔藤井寺市史第一巻 通史編 一〕藤井寺市史編さん委員会編H9・3・31 藤井寺市発行
本文
[未校訂] また明応の兵火で本堂と塔のみかろうじて残存した剛
琳寺は、永正七年八月の大地震により倒壊したので、同
年十一月に勧進帳が作成され、聖が募金を始めた。翌年
二月、剛琳寺では勧進帳を一代の碩学三条西実隆に清書
してもらいたいと参議阿野季綱を通じて依頼し、二月十
一日実隆は快諾し、十四日には清書を仕上げて季綱の[許|もと]
につかわしている(『実隆公記』)。
 永正の地震では古市の西琳寺の塔婆も倒壊したらし
く、守護畠山尚順は同寺に対して大工や人足の提供を約
している(『道明寺天満宮文書』)。また河内常光寺も、永
正八年(一五一〇)六月、震災復旧のため勧進帳を作成し、
募金に乗り出した。このように尚順の守護就任直後あい
ついで諸社寺の復興の動きがみられる事実は、漸くこの
地域の戦国争乱が小康状態に入ったことを示すものであ
る。
 しかしこの「一国乱」の場合は、本(剛琳寺のこと)堂一宇・塔一基が
残った。「諸檀那の合力」を期待する勧進、あるいは勧進
の準備が、すでにこの段階から始まっていたが、その最
中の永正七年(一五一〇)八月八日暁、葛井寺は今度は大
地震に襲われ、「一寺滅亡」というありさまとなった。同
八年六月一日付の河内常光寺勧進状によれば、八尾の常
光寺も、この大地震によって「堂舎悉破」という状態と
なっていた。葛井寺の場合、幸いに本尊千手観音は難を
免れたが、伽藍はおそらく壊滅的な状態となったのであ
ろう。固有名詞こそ知られないが、勧進沙門(聖)某が介
在し、問題の勧進状が作成され、広く貴賎の浄財が募ら
れ始めたのは、以上のような事情のもとであった。「一刹
伽藍の退転は、衆生掎化の方便なり。誠に嘆きの中の悦
びなり」という本文中の逆説は、他の寺社の勧進に際し
ても、繰り返し語られることがあった。災害などによる
伽藍の被害、衰退を、むしろ衆生救済のための方便とみ
る考え方である。勧進に際して喜捨すれば、衆生の作善
行となり、救済に役立つというわけなのである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 924
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大阪
市区町村

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