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項目 内容
ID J2700467
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛驒・越中・加賀・越前〕
書名 〔仲村家年中録 (四)〕○富田林村(現同市)H1・1 大谷女子大学資料館編・発行
本文
[未校訂]一、二月廿五日夜八ツ時大地震后此かた之甚敷震有之、
余程長々ゆり掛ニ主人信道目ヲ明、直様地震戸ゟ逃出、
南仲村之門先迄にけ越申、家内皆〻逃出候位之事也、寅
年地しん之後ハ是が一ばん強敷歟等人〻申居候事ニ候、
酒入有之桶之口張ニ一本斗ハ志づみ申位ニ候、同夜八ツ
半時ニ又壱度ゆり候へとも是ハ前ゟハ軽く候、翌日昼迄
ニ小震有之、又七ツ時比前夜ニ似寄少しハ軽く震申候、
其夜も小震一両度有之候故、手代宇兵衛下男壱人夜番為
致、我等ハ外店ニ而臥申候事也、其后ハ先ツ〳〵無㕝ニ
相納リ喜悦ニ存候、廿六日地しん仮屋ヲ少〻繕、畳ヲ敷
置候位之事ニ而杉山も仮屋繕いたし候由承候、前々ゟ不
順ニ有之雨氣もやう有之、一向ふり兼候而廿五日夜も冷
氣ニ有之候所、右之次第ニ候、追而承リ申處、加賀辺ハ
大地しんニ而人家沢山たおれ申候よし聞取候、廿五日夜
之分ハ北国ハひる強候由聞込候事也、可恐事ニ候
 六月小
一、六月五日ゟ政助堺海部屋聞合ニ小山屋へ向さし出、
七日帰宅之㕝
一、朔日歯かため祝之候
當年二月廿六日越中国大地震并ニ三月十日泥湖水記
一、立山之内温泉之谷并埒込之地西南方山續キ有峯ト申
所有之、右立山ト同㕝高キ山ニ候、温泉之谷ヨリ有峯マ
テ十里斗リ之所打崩、右谷々四筋有、真川湯川和田川(唱カ)嗢
名川常願寺川ト申所ニテ一ツニ落合水場水戸尻海江突出
ス迄六里計り
一、四筋之川之内嗢(唱カ)名川ニハ無難ニ流、跡三川ハ留居申

一、右山抜之場所、湖水之如クニテ水煙相立候中ニ晝夜
モエ上リ居申候所貳ケ所有之、溜リ水之所見積リ凡五里
トモ七里トモ難計、夫ニ付川辺之在〻ハ不及申立退キ候
者モ有之并市中モ右山抜水捌キ如何相成候哉ト大心配仕
居申候処
一、當十日晝時ニ又候地震有之候処(マヽ)ハ大湖水ニ少々水道
出来候、右彼常願寺川筋之在〻村〻右水戸尻迄五里計リ
所、即時ニ相流、人損シ数不知
一、彼立山之下ニ芦倉岩崎上瀧ト申候所御座候、右芦倉
ニ繩手モ流レ宿坊モ有之、在家モツブレ有之
一、岩崎之内宿坊十軒計リ泥ニテツブレ流出シ右常願寺
川江五間之大岩抔流来リ尤大塩ト申所大川除有之、高サ
拾間計長サ百間計リ石垣上之巾八間ニテ貳拾四間、右川
除有之候處、泥ニテ埋、尤川筋五里計リ之處、右ニ水戸
尻迄泥之海ト相成居申候、夫ニ付彼之湖水之水戸今少々
余計ニ相成候時ハ城中市中不残泥海ト可相成候、晝夜火
㕝之如ク近在之高見江小家掛之者有之候、大混雑寔以前
代未聞之㕝ニ御座候、今ニ立山之鳴リ鎮リ不申候故、決
テ亦々水之動可有之ト世上一統之評議マチ〳〵ニ御座候
右ハ御坊御留主居へ越中親類ゟ参リ候書付之写ニ有之
候、當辺も廿五日夜八ツ時ケ成之大地震ニ有之候、定此
時之事ニ相心得候、扨も可恐事共也、依写置之もの也
右五月六日写之
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 885
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大阪
市区町村 富田林【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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