[未校訂](しづのおだまき)小冥野夫著明治七年記
安政元年の地震
○安政元甲寅年十一月には江都めづらかなる地震有り。
余が居宅など皆かたむきたり。小川町下谷本所深川など
は殊外にはげしかりき。余は此日いまだ寝もやらず文机
の下にて書物よみ居たりしに、数万雷の落かゝりたる物
音せし故に驚きて立あがり、脇に置たる刀をとりて祖母
なるものゝおる所にゆきしに、もはや左右の壁土おちて
雨の如し。祖母の所にゆきしに入口は壁土落ちて山をな
しぬ。其所こへて入り、祖母の手をとりて園中に出たる
に、倉庫共皆ふたつにわれて崩たり。いと驚きて四方を
見れば、火の事有りてひるの如くあら(き脱カ)かなり。左れば余
はづさ一人つれて馬に打乗り、九段坂に至る。皆平地わ
れて馬の足ふみおとさんかと思ばかりなり。それより大
手御門に至れば御門は表方にたおれて御橋は落てけり。
左れ共非常の事なれば、御橋のふち纔に残りたるをたよ
りて御門に入たれば、大手の内腰かけ盛んにやけたり。
其さま落城の風情にていと心よからず。御玄関前にいた
りたれば、御目附津田半三郎出おりたり。余もいとはげ
しき地震なれ共、幕府には御平安被入るゝ哉。先其御安
否を尋て心落つきたり。此半三郎は従来仏学を好て世に
きこへし人なり。四十八歳の時御小納戸に召加られしと
いふ人にて、其前御小納戸吟味に七度ほど出て、晩年に
其役に成りたりしなり。万事はく学にて差当りての才気
は薄けれ共、退てゆるり事を論る時は意外の論有る人な
り。後に箱根奉行大目附に至る。近江守と申たりき。又
北地の事は委しくして、辺界叢書を献上して拝領物なし
たるなり。六十有餘にてみまかりぬ。余父志摩守と同年
なりし。偖て余それより中の口に至る。その頭仙石宇兵
衛に面会なし、それより寄場なる桜田御門外の松平肥後
守屋敷前に行たるに、肥後守屋敷は皆つぶれにて出火な
し、皆やけ落たる所なり。肥後守の奥方は駕輿のまゝに
屛風ひき廻して御堀ふちに野宿せり。いと哀れなるさま
なり。寄場に同僚は瀬名源五郎一人出おりたり。其外は
皆途方にくれていまた出て来る人なし。同僚なる日向半
兵衛はおのれ家皆つぶれて家内皆其下になりたり。おの
れも屋根をかろうじてやぶりて出たる故、所々けがなし
たれ共、其まゝ登城して仙石宇兵衛に面会なしひきとり
たるとぞ。此人は馬をよく乗たるものにて、其気質強壮
なる才子なり。故にかくふるまひしなり。実にかんずべ
し。其後は余など半月計は園中に露宿なしたり。同僚な
る神田剛次郎正清が歌よみて越したるが、其歌に
庭おもにくらす一夜のうかりしは
露の命の有ればなりけり
申こしたるも実に其時のさま見る如し。余ずさ共家内
が臥したる夜のふすまの上に霜の白くおりたるなどは、
実に哀れなる事に侍る。是大震も幕府衰の前兆なるべし。
(注、安政二年十月二日の江戸地震のことか)