[未校訂]地震と地変
大きな地震があった年次は前記に掲げ
た年表の中に見ることができる。しか
し詳しい記録は見えないので、詳細については記しかね
る。天保十四年(一八四三)の地震の時、その前ぶれのよ
うな兆候があったことを記している記録がある。
「正月より二月末迄辰の方(東南)より申の方(西南)へ
白虹の如く出る。夕暮れ六ツ時(午後六時)より五ツ過ぎ
(午後九時)まで。[不思議|ふしぎ]なることと思っていたが、当六
月六日夕暮六ツ時大地震になり、国中騒ぐ。中にも此辺
は谷地通り青田丸打ちになる。家・土蔵の壁落ち、戸・
障子いたみ、大さわぎなり。」
この年の地震の前ぶれと思われる事には、二年前の天保
十二丑年(一八四一)にもつぎのようなことがあった。
「高野山弘法大師のおさづけにて、処々に染屋あり。
まことに有がたい染屋にて土より出るなり。その節染屋
高値なり……、斉内辺当六月時分より始まり、この辺は
大蔵(当町旧大蔵村)より始まり染めるなり。下鶯野の内、
大たり野という所(高橋)に出、又、八幡林村地蔵脇にも
染屋出、九月[初節句|はつせつく]より出、又、下延にて人間助け湯も
出、まことに有がたく、目によし万病によし染屋湯なり。
これは丑年一箇年かぎり」(註、藤田義朗所蔵「日誌」
より)。
これは弘法大師のおさずけとしているが、地震のおさず
けである。表土の下層にあるグライ層という粘土層を低
部から透して湧出した酸化鉄で、これをこの地方で
は「[沢見|さみ]」と呼んでいる(註、秋田市附近では「ミサワ」
と呼ぶ。資料伊藤鉄太郎著「土器と城郭」)。まだ噴火の
おさまらない高山の温泉などに血の池とも言っているも
ので、この赤い酸化鉄が天保十二年に地表面に湧出し染
料になったものである。江戸時代に郷帳へ地名として沢
見と書入れているが、[サミ|○○]又は[サミ田|○○○]と呼び、別名に[谷|○]
[地しぶ|○○○]とも呼び表土と粘土の間を湧水と一緒に流れて排
水されている。これが粘土にしみ固結したものを江戸時
代までは[抓|かき]あつめて洗滌して銑鉄と成し、農具や鍋・釜
を造っていた。銑鉄を造った所を「鍛冶屋敷」とよんで
地名・字名になったり、また地名に残らなくともフイゴ
や鉱滓を残している所(豊岡字三棟)等がある。この天保
十二年の「染屋」は同十四年の地震の前兆と見なされる。
本項で扱う時代の地震では、家が倒潰するほどの大地
震が当地方にあったと思われるが、記録が見当たらない。