[未校訂](猿著聞集)八島定岡(鈴木春信?)著
文政十一年刊
○春人地震に母を負て歌よみし事
伊勢のくに香取の里に村上春人といふものあり。今より
は八とせまりさきのことになん。みなつきの十二日未の
ときばかり、たちまち地ふるひ家なりうごき、うつばり
おち壁くづれ、瓦くだけておちちらぼひ、ものおとひゞ
くこと、もゝのいかづちのおつるよりなほおそろしく、
今やあめつちくつがへりぬることよとおどろき、ひと
〴〵なきさけびてはしりさまよひけり。此とき春人は老
たる母をせおひて、外の方にいでゝ見るに、こゝかしこ
に家くづれて、つちけぶりそらをおほひ、日のかげくら
くゆくべきさきすら見えわかたず。ものおとのみひたき
こえて、ひたぶるおそろしかりけるを、からうじてはし
りのき。ひとつの竹ばやしのかたはらに、母をおろしせ
をかいなでゝありながらも、なかばうつゝのごとくなり
き。やう〳〵に心しづめつ、こしよりやたてといふもの
とうでゝ歌よみけり。山にきゞすのなくをきゝて、
音すれば人とおもひつかゝることしらでや雉子の山
になくらん
とよみけり。しづまりてのちかゝる中にてうたよみつる
は、いとこそうつけのわざなめれと、人々のいひければ、
春人わらひて、まことよき歌のとくには、あめつちをも
うごかすべしと、古今集のはしがきにもはべり。さらば
わがあしきうたには、うごくあめつちもえしづまりなん
こともこそあらめとおもひて、さてはこしをれをもよみ
はべりとたはぶれければ、人々わらひてやみにけり。さ
はれまことはさにあらず。われおどろかば母もさこそは
おどろきたまふらめと、さらぬさまにもてなしゝなりと、
ある人のいひし、さもありなんかし。此とき二ツの御寺、
二十八宇の家居、みなたふれてぬりごめ小家はかずをも
しらず。さながら死たる人、疵つきたる人とてはひとり
もあらざりき。かの一目連のまもらせたまふゆゑならん
と、人々のたふとみしことになんありける。その国より
きたりし人のかたりしまゝにしるすになん。