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項目 内容
ID J2500524
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔改訂新庄町史 本篇〕○奈良県 改訂新庄町史編集委員会S59・10・1 新庄町役場
本文
[未校訂](2) 幕末社会の混乱
嘉永の大地震
 嘉永七年(安政元年
一八五四
)六月十四日の夜九ツ時頃から翌十
五日朝にかけて、近畿地方中南部を中心にした大地震がお
こった。いわゆる安政の大地震であるが、とりわけ大和・
伊賀・伊勢三ケ国の被害が大きかった。大和では奈良・郡
山・古市(いま奈良
市古市町
)が大きな被害をうけた。諸書で多少
の数量的なちがいはあるが、奈良町では三〇〇~五〇〇軒
の家屋が全壊し、数百人の死者が出た。郡山町でも五〇軒
ほどが倒壊し、一〇〇人をこえる死者があった。また津(
藤堂)藩城和奉行所がおかれた奈良町南郊の古市村では村
の東方にある平尾の池の堤が切れ、六〇人余りが死んでいる(
萩原尊禮編
『古地震』
)。同年十一月四日から五日にかけても、
(上略)同十一月四日朝四ツ時大地震凡半時余りゆり候、
 右同日昼夜之中五六度、中ニも四五度ハ厳敷ゆり候、同
十一月五日七ツ時大地震、半時斗大ゆり家蔵倒ル事数多
シ、但し此時大和ニ而ハ新庄辺より高田其近在、東ハ桜
井限り、北ハ俵本辺迄、南ハ新庄辺限り、西も新庄限り
(中略)是より後十一月廿日頃迄昼夜十ケ度余大小共地
震有之候(下略)(前掲「諸事
記録帳
)」
と、伝えられる大規模な地震がおこった。
 新庄地方でも両度の地震によって多大の被害がもたらさ
れた。第四四表は林堂・道穂両村の被害状況であるが、多
少の手当金が領主から出されたとはいえ、天保ききん以来
の災害と凶作に苦しめられてきたこの地方の人びとに大変
な打撃を与えたのであった。
第44表 道穂村南北・林堂村地震被害状況
被害状況
全戸数
全壊
半壊
破損
手当金
備考
村名
道穂村北方
道穂村南方
林堂村
}七六軒
三七
○軒


一軒


一〇軒

二一
三両
二両一分
九両二分
一○ケ年賦返済・毎年
金二分・永二五文
同右
一〇ケ年賦返済・毎年
金三分・永二〇〇文
(注)道穂村南北は安政二年四月「地震御手当金拝借証文」 (新庄・
角尾吉高文書)林堂村は同年「地震御手当金拝借証文」 (林堂・
区有文書)からそれぞれ作成。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 796
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 奈良
市区町村 新庄【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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