[未校訂]時は安政元年(一八五四)の大地震の折りである。この
時の地震で、富士川右岸一帯は、数米地盤が上り、これか
ら後は富士川の洪水があっても、水は水神の森から下の五
貫島方面に奔り蒲原岸には来なくなった。現在もそうであ
る。富士川左岸の向岸は今でも堤防下は低いが、蒲原には
そんな処は外堤の外の話しである。しかし安政の地震前は、
古郡孫太夫が雁堤などを作り、富士川を水神の森西に本流
を流す様になって以来、洪水は蒲原岸をいく度か溢れさせ、
水の災害をくりかえしたのであった。
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項目 | 内容 |
---|---|
ID | J2500420 |
西暦(綱文) (グレゴリオ暦) |
1854/12/23 |
和暦 | 嘉永七年十一月四日 |
綱文 | 安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕 |
書名 | 〔蒲原町史〕蒲原町史編纂委員会編S43・11・3 蒲原町発行 |
本文 |
[未校訂]時は安政元年(一八五四)の大地震の折りである。この
時の地震で、富士川右岸一帯は、数米地盤が上り、これか ら後は富士川の洪水があっても、水は水神の森から下の五 貫島方面に奔り蒲原岸には来なくなった。現在もそうであ る。富士川左岸の向岸は今でも堤防下は低いが、蒲原には そんな処は外堤の外の話しである。しかし安政の地震前は、 古郡孫太夫が雁堤などを作り、富士川を水神の森西に本流 を流す様になって以来、洪水は蒲原岸をいく度か溢れさせ、 水の災害をくりかえしたのであった。 |
出典 | 新収日本地震史料 続補遺 別巻 |
ページ | 547 |
備考 | 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。 |
都道府県 | 静岡 |
市区町村 |
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