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項目 内容
ID J2500071
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔三ケ日町史 上巻〕三ケ日町史編纂委員会編S55・2・10 三ケ日町発行
本文
[未校訂]宝永大地震
と本坂街道
 本坂街道の交通が激増したのは宝永四年
(一七〇四)十月の東海道大地震の直後からであった。此
の時「御関所潰レ、津波ノ上ル事大事ニシテ三度、渡海止
ル事四五月、今切之渡海広罷成故浪荒渡舟不自由」(新居
町史)となったので東海道を往来する人々はいっせいに、
本坂街道に殺到したのである。
先づ其の年十一月には日光門跡の通行があり、記録によ
ると気賀に於て人足二、九九七人、馬四七七頭が必要であっ
たので急遽附近四三ケ村を助郷に指定して人馬を集めてい
る。他の嵩山三ケ日等も同様の苦労をしたものであろう。
次の宝永五年(一七〇五)に於ける大名等の本坂街道通行
は上下合せて実に三百回以上でそのうち一行千人以上が十
六回、百人以上が五十回を越した大へんなもので、中でも
六月四日の松平民部大輔の一行は六千人を越す大部隊であっ
た。
この混雑のため、沿道の領主や嵩山三ケ日気賀市野の四
宿は応接に休むいとまもなく百姓はそのための助郷役のた
め難渋を極めた。たえかねた四宿の庄屋は揃って或いは個々
に再三江戸に赴きその窮状を訴えている。
乍恐口上書を以申上候事
十月四日地震ニ而新居今切渡海不自由ニ罷成候ニ付往来
本坂越御通被成気賀町馬継ニ御座候處御伝馬役無御座、
御地頭小身ニ御座候故人馬少ニ而附拂差支申候 此段
為御注進申上候
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 51
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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