[未校訂]宝永大地震
と本坂街道
本坂街道の交通が激増したのは宝永四年
(一七〇四)十月の東海道大地震の直後からであった。此
の時「御関所潰レ、津波ノ上ル事大事ニシテ三度、渡海止
ル事四五月、今切之渡海広罷成故浪荒渡舟不自由」(新居
町史)となったので東海道を往来する人々はいっせいに、
本坂街道に殺到したのである。
先づ其の年十一月には日光門跡の通行があり、記録によ
ると気賀に於て人足二、九九七人、馬四七七頭が必要であっ
たので急遽附近四三ケ村を助郷に指定して人馬を集めてい
る。他の嵩山三ケ日等も同様の苦労をしたものであろう。
次の宝永五年(一七〇五)に於ける大名等の本坂街道通行
は上下合せて実に三百回以上でそのうち一行千人以上が十
六回、百人以上が五十回を越した大へんなもので、中でも
六月四日の松平民部大輔の一行は六千人を越す大部隊であっ
た。
この混雑のため、沿道の領主や嵩山三ケ日気賀市野の四
宿は応接に休むいとまもなく百姓はそのための助郷役のた
め難渋を極めた。たえかねた四宿の庄屋は揃って或いは個々
に再三江戸に赴きその窮状を訴えている。
乍恐口上書を以申上候事
十月四日地震ニ而新居今切渡海不自由ニ罷成候ニ付往来
本坂越御通被成気賀町馬継ニ御座候處御伝馬役無御座、
御地頭小身ニ御座候故人馬少ニ而附拂差支申候 此段
為御注進申上候