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項目 内容
ID J2403062
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1821/12/13
和暦 文政四年十一月十九日
綱文 文政四年十一月十九日(一八二一・一二・一三)〔岩代国大沼郡大石村〕
書名 〔金山町史 下巻〕○福島県大沼郡金山町S51・3・25 金山町史出版委員会
本文
[未校訂]二 大石組地震
震災の発生 文政三年(一八二〇)六月、空前の大水害を
こうむった大石組は、その復興もまだ遅々と
して進まないまま、翌四年の十一月、前代未聞の大震災
に追い討ちをかけられることになった。組内村々のうけ
た被害ははなはだしく、しかも余震が続発して人心は動
揺し、危険が極度に高まった。このため会津藩では、つ
いに組内全村に対し、隣組の各村へ強制立退きを命ずる
決定を下した。藩は莫大な経費の支出を決めて罹災民の
救助にあたる一方、城下においては、藩主名代参列の上、
天魔退散・領民安泰の祈禱も執り行なわれた。世人はこ
れを「大石組地震」と呼び、長く悲しい恐怖の語り草と
して伝えてきているのである。
 地震が発生したのは文政四年十一月十九日の五ツ半時
(午前九時)ごろであった。震域は会津一円に及んでは
いるが、被害は大石組に集中し、とくに沼沢湖周辺がは
なはだしかった。当時、震源は沼沢湖の地底と考えられ、
湖が今にも決壊するという流言がとび、住民を極度の不
安におとしいれた。これはかならずしも根拠のないこと
ではなかった。すなわち、沼沢湖は沼沢火山の活動によっ
てできたカルデラ湖である。千数百年前にも活動したこ
とがあるので、その地底にはまだ不安定な個所があった
はずである。そのためにおこった局部的な地殻活動に基
づく火山性地震ということであれば、これは十分根拠の
あることであったのである。『大石組大地震一条』文政
四年十二月三日の条に、この度の地震について不思議な
ことがあったとして、「板下村沖根が原、大地割れより
浜砂吹出し、硫黄の匂いこれあり、太郎布村の麻畑の内、
一五畳敷ほどの内にも砂利砂五、六寸ほど雪の上まで盛
出し、かれこれ不思議どもこれあり」と伝えている。太
郎布村の場合は後より発見したことで、砂が盛上ったと
きは、板下村と同じようにおそらく硫黄の匂いが漂った
であろう。これらのことは沼沢火山の局部的な活動に基
づく、火山性地震という考えを史料も補強していること
を物語るものである。
 こうして、沼沢湖周辺の六か村(太郎布・沼沢・福沢
入新田・三更・大栗山・水沼)の危機感はいっきょに増
大した。翌五年正月十五日、他村に先きだって強制立退
き命令が発せられた。残りの各村は二十日まで延期を認
められた。只見川左岸の早戸と本名の両村は、いったん
立退きを命せられたものの、結局は免除された。
 大地震が発生し、被害が続出したので、小栗山からは、
飛脚をもって田島役所に[内川|うちかわ]筋(小栗山・八町・中井・
玉梨等野尻川沿岸)の被害状況を急報した。事態容易な
らずとみた田島役所では、藩へ事の次第を通報するとと
もに、急拠、現地見分のため、役人数名を出張せしめる
ことにした。
被害の概況 今回の地震については、大栗山の名主(当時
大石組の惣代名主)佐野右衛門が詳細な記録
『大石組大地震一条』(写真)を残しているほか、沼沢の
名主佐兵衛は『変難実録』、宮崎の名主庄次郎は『地震
方始終留』と題する記録を残している。これらによって
ほぼその全貌を明らかにすることができる。なお、鮭立
の大竹文書、田沢の渡部尚文書には疎開者受入側として
の記録がある。これらもまことに貴重な史料であり、あ
わせてこの大震災解明のよき助けとなっている。
 さて庄次郎(伊左衛門と同一人)『地震方始終留』は
巻頭にこうしるしている。「文政四巳十一月十九日五ツ
半時、大地震にて数々の居宅震[禿|つぶ]れ、組中において、太
郎布・大栗山・八町・水沼別して強く、太郎布村にては
二人の女[禿家|つぶれや]の下に相成り死去仕り、その外、土蔵等は
申すに及ばず、道・橋・田畑損所、用水堰・川除・石垣
等、皆以って震崩れ、地割れ・山崩れ・岩崩れ・山引割
れ数か所にて、[中々|なかなか]筆紙に尽くしがたく、あるいは供養
塚・石塔等、残らず押返えし、同二十日朝まで引続き震
え方止むことなし。二十日より少し静かに罷成り候処、
鳴動は相止まず、それより一統小屋住居にて、数十日致
し候内、十二月朔日夕刻余程の地震仕り、又同月十日夕
並十五日の夕刻、これも多分の地震にて外へ逃出し申し
候、それより少々地震も静かに罷成り候て、無難に越年
仕り候処、正月四日八ツ半時大地震、又同月六日夕五ツ
半時、何れも去る十一月十九日にひとしき大地震にて、
太郎布などなお又三軒禿れ、その外、家々戸障子・壁・
垣等損じ、道筋彼是この節も多分の損所出来申し候。」
余震というようなものではなくて、十一月十九日以降も
翌年正月六日あたりまで、大小地震の連続だったことが、
生々しくのべられているのである。
 こうして、太郎布では人妻二名が圧死したほか、各村
とも多数の負傷者を出し、さらに第25表に示すような家
屋の被害を出したのである。(『大石組地震一条』大石組
惣代名主佐野右衛門控)。大石組家屋の二〇%余が全壊、
二二・五%が大破。この計四二・五%。まさに壊滅的打
撃を蒙ったのである。
第25表 大石組村々家屋の倒壊数
見分と祈願 大石組からの急報により、現地見分のため、
急拠田島から役人が出張して、被害の状況を
つぶさに調査したことは、さきにものべた。若松からも
役人が二組に分かれて見分のため来村した。第一組は高
津悦治・楡井丈之助の両名と配下の二人で、二十八日、
宮下経由沼沢泊りで来村し、上野筋・只見川筋の村々を
視察した。第二組は原田忠左衛門・佐藤七百吉と配下合
わせて四人。これは野尻組から二十九日玉梨泊りで来村
し、内川筋を見分した。両組は十二月朔日、大石で合流
し、三日に帰藩した。ついで十二月十日、若松より配下
二名とともに代官の鈴木覚左衛門が来村し、惨状をつぶ
さに視察して、十四日帰藩した。さらに郡奉行の一行八
人も廻村することになった。当時の郡奉行は吉田半蔵と
大川原長八の両名であった。まず、十二日、吉田奉行が
来村し、十七日には大川原奉行と交替した。
 この間、余震は断続的に襲来し、家々は大破して居住
いができなくなった。折から冬季、雪中ではあったが、
比較的安全と思われる場所へ避難し、形ばかりの小屋掛
けをして、当分の仮住居とした。この間いろいろな流言
[蜚語|ひご]が乱れ飛び、人心はいよいよ不安と恐怖におそわれ
た。頼むものとては神仏の加護しかない有様であった。
 たまたま鈴木覚左衛門から十二月朔日付をもって、左
の達しがあった。「惣民安全のため、沼沢村沼御前の社、
太郎布村諏訪明神の社両所において、来る四日より同六
日まで二夜三日の御祈禱を仰せつけられたので、両社へ
勝手次第参詣するよう申付ける」というもので、書状は
大石組触継藤右衛門方へ届けられた。このため、早速十
二月三日、組参会を開き、達しの通り参籠をすることに
一決した。沼沢の神官佐久間美濃正が、命を受けて祈禱
の執行にあたった。藩からは両社に対し、初尾各一分二
朱宛奉献があった。名主たちは百文ずつ奉納して祈念を
こらした。
 さらに出羽八聖山に祈願すべく、板下大寿院の修験を
依頼し、代参を立てることにした。そのため、組中で弐
両を人別割で調達し、大寿院は七日に出発し年末に帰村
した。八聖山は不動明王の霊所である。
 ところで、この災害にあたっての会津藩の心遣いも特
筆に値する。組の代参が八聖山参拝中、沼御前神社にお
いては、藩の主催により第二回の祈禱が執り行なわれる
ことになった。今回は郡奉行の大川原長八が、代官鈴木
覚左衛門・物書村田繁吉・取立役宮下理喜之助・同心小
頭広沢伝蔵・同心矢羽永蔵以下同行十三人で、十二月十
八日、沼沢に到着した。十九日、随行の神官が祈禱した。
二十日の朝までには大石組名主・組頭の全員と、大谷組
の郷頭、大谷・浅岐・間方・黒沢四か村の名主が参集せ
しめられた。しかも郷頭・名主らは麻上下、組頭は羽織
袴着用のことと、申し渡されていた。
 こうして、前回とは異なり、大川原郡奉行以下役人十
三人列座のもとに、祈禱はいとも厳粛に執行された。開
式にあたり物書村田繁吉からは、とくに戒令の文が読み
聞かせられた。それによれば、若松においても、見弥山
御社・建福寺をはじめ諏訪宮などにおいても御祈禱が行
なわれ、藩主名代として家老が参列していたのである。
この後、野尻・砂子原・名入・沼沢・川口、以上五村の
神主が祝詞を奉上し、神楽を奉納して全儀式を終了した
(『大石組地震一條』)。
 間断なく襲ってきた余震も年末にはようや
強制疎開く静まったかに見え、新年への希望をつな
ぎながら、文政五年の正月を迎えた。しかるに元日早々
またも相当の余震が襲来した(『変難実録』)。続いて四
日の八ツ半時(午後三時)ついで六日の五ツ半時(午後
八時)、初回に劣らない強震が襲い、七日の朝まで片時
も止むことがなかった。村人は皆外にとび出し、雪の上
にたたずみながら、寒気と恐怖の一夜を明かした。
 もう、一刻も猶予できない。正月九日、大栗山名主佐
野右衛門・水沼名主蔵右衛門・沼沢名主久次郎・宮崎名
主伊左衛門らは、連署をもって、旧年十一月地震発生以
来の経過と、この度の再発状況について文書をしたため、
大石村止宿中の出役役人小林丹蔵宛百姓救助方を懇請し
た。小林は早速、この旨飛脚をもって藩へ急報した。鈴
木覚左衛門・篠田覚右衛門の両代官以下六名が、十二日、
大石村に到着した。両代官は若松出発にあたり、組中の
三役はもちろん、ほかに大塩・野尻・瀧谷・大谷四か組
の名主全員が、十三日に大石村に参集するよう命令して
おいた。大石村に着いた両代官は、ただちに次の通り申
し渡した。
一、大石組の地震は今もって終息しないで危険であるか
ら、全戸他組へ引越しを命ずる。
二、太郎布・沼沢・福沢・大栗山・水沼・三更の六か村
は、格別危険であるから、十五日中に、他の村々は二
十一日を期限として引越すこと。
三、他組へ引越した上は、男は一日五合、女子供は三合
の割で、扶持米を支給する。味噌は一人二十匁ずつの
割をもって銭で支給する。
四、細部については追って指示するが、命令に違背する
[族|やから]は厳重に処罰する。
五、明十四日早朝までに村へ立帰り、この旨小前の者ど
もに伝達せよ。引越し受入先の名主どもは、受入体制
を整えおくこと。
 こうして、いやおうなしに強制疎開を命ぜられ、大石
組中、本名・早戸の両村を除く全村は、それぞれ指定さ
れた他組の村々へ引越すことになった。
 引越しにあたっては、見届け役として役人が手分けを
して各村に立会い、所要の指示を与えた。村民一同は名
主宅に集合し、かねて用意の立振舞の酒をくみ交わした
のち、当座の小遣いとして銭少々ずつを渡された。名主
は一同が何月何日限り何組の何村へ引越し、藩の指示が
あるまで言行に注意して生活すべき旨の請書を、惣百姓
連印をもって役人に提出した。なお、積雪中のこととて
牛は引いていけなかったので、牛番として牛二~三頭に
一人ぐらいの割で何人かはあとに残された。これには二
三男があてられた。その村別人数は上表の通りである。
第26表
各村の残留者数
第27表 大石組引越しの各村名と引越し先
第28表
引越し受入先各組の受入戸数と人員
 しかし、太郎布は鳴動ことの
ほかはなはだしく、危険で一人
といえども住いができないので、
全員立退くことになり、立退き
先の松山村から、毎日通いで牛
の飼養にあたるよう指示されて
いる(大竹文書『変難一件』)。
やがて引受先から迎えに大勢の
人足が来た。人々は、この人た
ちに伴なわれ、後髪を引かれる
思いで我が家を立ち去った。指
定された各村の引越し先は次表のとおりである。
 大石組のうち十五か村は、正月二十日までに、全戸指
定の隣組各村へ立退いた。受入先各組の戸数と人数の合
計は、次のような多数に上った(『大石組地震一条』)。
 さて避難民受入先の村々は、藩の命令があったとはい
え、受入体制の万全を期したことはもちろん、当日は荷
物運搬のため人足を差向け、村役人以下多数が出迎えて
もくれた。そして何かと親切に世話をしてくれた。しか
し、他郷での一時的な疎開生活のことである。夜具・鍋
類のほかは、ほとんど携行させられなかったこともあっ
て、日常何かと不便であった。狭い農家の一室を借りて
家族ぐるみ世話になっていることは、堪えられない苦痛
でもあった。世話する側もそれだけ気をつかった。
 ところで、村立退きにあたって、立退き先においては
指示通り、言動に注意して生活し、やがて帰村の上はふ
たたび農業に精励すると誓約したことは前述の通りであ
る。疎開者たちは、次の通り、十二項目にわたり「小前
慎み方」の注意を与えられていた。
一、 御条目を堅く守るべきこと。
二、 火の用心大切に心がくべきこと。
三、 賭事は禁制たるべきこと。
四、 喧嘩口論をすまじきこと。
五、 その村の作法に従うべきこと。
六、 それぞれの手仕事を怠らざること。
七、 出火騒動の場合は村役場の指図に従うべきこ
と。
八、 酒飲み夜遊び等は厳禁のこと。
九、 みだりに疎開先を離るべからざること。
一〇、 借宅同居の者とは特にむつまじくすべきこと。
一一、 他所者は一宿たりとも差置くべからざること。
一二、 差掛った難渋は役場に申し出ずべきこと。
 以上がその要旨である。時節が降雪の折であったから、
作物の手入をする必要はなかった。その点が、せめても
の幸いであった。そのため、男は藁細工、女は[麻|お]をうむ
ことが日課であった。しかし、他郷での仮住居がわびし
いばかりではなく、牛番として残してきた二三男の身の
上も気遣われ、雪消え後の農作業も案ぜられるなど、こ
の疎開生活にじっとしてはいられない気持が強かった。
 他方、受入先村々の避難民に対する取扱いはまことに
親切なものであった。大塩組田沢村の一例をみると、当
時田沢村は二十三戸であったが、川口の三家族十人と西
谷の四家族十四人を受け入れている。受け入れにあたっ
ては、すでに十六日に十五人が川口と西谷に出向き、前
もって荷物を運んで来ているばかりか、当日の二十一日
には、八人が横田まで出迎え、三人は、田沢・上横田間
の松坂が難所の雪道だというので、道作りまでしている。
村をあげての歓迎であった。
 なお、疎開者ができるだけ住みよいようにと、前日の
二十日には、三十六人役をかけて、貸家の手入れを済ま
せ、引受の万全を期した。また取りあえず薪を一世帯に
二荷ずつ配り、以後必要に応じて村の立林を伐らせたり
もしている。このほか、畳・莚・膳あるいは夜具布団ま
でも貸与している。疎開中、西谷の銀蔵なる者の女房が
女子を分娩した。そのような世話も受け入れ側の配慮に
まつ(ママ)たのである。(田沢、渡部尚文書『大石組大地震ニ
付引越関係綴』)。
 これは田沢村の一例にすぎない。各組各村とも、さま
ざまの犠牲をはらいながらも、心から親切に扱ってくれ
●印は引越村
○印は受入村
第3図 大石組引越村と他組の受入村の略図
たのである。
 避難民引受各組と大石組との境の部落には改所が設け
られた。常時二~三人の番人が交代に詰め、疎開者が止
むをえない用件で一時自村に立帰える場合、通行手形を
発行した。大石組の村々は、ほとんど無人といってよく、
盗難その他の防災に万全を期さねばならなかった。疎開
者たちは疎開後もやはり大石組のことを考えなければな
らなかったのである。
 同じ改所を大塩組では橋立に設けた。野尻・瀧谷・大
谷各組もこれに準じて施設している。橋立改所では、諸
人足・諸雑費として一貫六五三文三分を要した。このう
ち半額は村の石高割(百石に付四六文三分)、半額は毎
戸の平均割として大塩組全体で負担している(渡部尚文
書『改所入用並引越御手当金割合帳』)。
三 村に帰る
帰村の歎願 絶え間ない余震におびえながら、避難民は他
郷でじつとたえ忍んでいた。さしもの余震が
おさまり、危険がまったく去ったのは、二月にはいって
からであった。二月といっても太陰暦である。しかも文
政五年は閏年で正月が二回あったから、太陽暦では四月
に足を入れていた。しびれを切らした疎開民は、ついに
閏正月の下旬、板下(名主関右衛門)・水沼(名主蔵右
衛門)・大栗山(名主佐野右衛門、三更兼務)・宮崎(名
主伊左衛門、庄九郎とも称した)の村役人連印をもって、
長文の[廉書|かどがき](理由書)を付し帰村の歎願をした。この廉
書は、当時における金山農民の生活実態をよく示してい
るものでもあるから、その全文を掲げることにする。
家作・家直しの配慮覚
一、[禿家|つぶれや]の者共、家作差支え候事
此段家作相成らず、借宅・寄せ[竃|カマド]等に罷在りては、
中々農作業・仕来りし蚕等まで取扱い致すべきよ
う御座なく、万端差支え、尤も家作仕り候には諸
材早春より取りはじめ、雪の上に取扱い申さず候
ては、多分の差支え、勿論村内人足[助合|すけあい]いの儀も
節おくれに相成り候ては、農業打立ての障り、一
体の難儀迷惑仕り候。
一、大破・小破の家差支え候事
此段、去る冬中家直し仕り候て可成りに居住致し
罷あり候処、尚又当正月の地震にて一体に痛み増
し出来候え共、大雪の年柄、軒を埋め候故、よう
やく相保ち居り候処、雪消えに従い自然と傾き、
大風などこれあり候わば禿家も出来申すべく候。
屋直し、手入れ、諸道具の手配、急ぎ取掛り申す
べく候わでは、大勢の居所差支え迷惑仕り候。
諸作諸用のくばり一、種物差支え候事
此段、旧冬の変難以来、品々諸用共多く、
殊には、民心転動いたし居り、種物仕拵え等閑に
成り行き、中には今以って稲のまま差置き候者も
これあり、最早種おろしの時節に差掛り候儀、其
の上、村により用水堰大破に及び、あるいは出水
相止まり種子浸し池用立ち申さず、たとえ不勝手
の場所なりとも、新規に浸し場雪を割り池抜い申
さず候ては相成らず、右両用普請仕り候には、余
程の人足相掛り候儀、差当り[行|てだて]支え罷あり申し候。
一、木の実方差支え候事
此段、最早御蠟しめ立ての時節にも相至り候えど
も、爾今一向手入方相及ばず、勿論変難に付村々
木の実取りおくれ多分これあり候分、引越の者共、
追々在所に遣わし取落させ候えども、鳥喰い・風
落ち等にて残少に罷成り、然る処当年の儀、御蠟
位進めの御取計いにて、房撰り仰せつけられ、御
漆改方当二十日頃御下りの趣き、御触にて承知仕
り、[彼是|かれこれ]差支え申すべくと存じ奉り候。
一、紙[漉|すき]差支え候事
此段、去る秋中に紙前金等引入れ、[楮|こうぞ]買入早春よ
り取掛り、[春木|はるき](春に伐る薪)以前に漉仕舞申す
べき体の処、今もって雪の中に差置き、尤も稀れ
に手廻しの者(手順の良い者)は旧冬楮皮煮始末
し置き候分もこれあり、この分は永く打捨て置き
候えば廃りに相成り、彼是年中の経営過分の不都
合出来迷惑仕り候。
一、薪差支え候事
此段、年々彼岸に入り候えば年中の薪伐取り相蓄
え申し候処、薪不足の村々は[深山|みやま]へ打越し、十四、
五日も山住い仕り罷在り、伐取り運送致さず候え
ば、俄かに調え候様御座なく、甚だ差支え迷惑仕
り候。
一、農具・山刀・[斧|よき]・鍬差支え候事
此段、鍛冶不足に御座候えば、例年早春より打立
てさせ相用い来り候処、永々引越罷在り、帰村の
上一旦(同時)に相成り候ては、早速出来兼ね、
一体の差支えに罷成り迷惑仕り候。
藁細工から肥料の手配まで 一、藁細工差支え候事
此段、引越候所にて寄り寄り才判(幹
旋)も致しくれ、当座はき物等は出来候えども、
藁の儀、何方にても例年入用高都合の上蓄え置き
候事にて、余計とて御座なく、第一年中入用の莚
並にミノ・荷繩[如何|いか]ようにも拵え候ようこれなく、
尤も在所より持送り候には荷がさに相成り、大難
場運送相及び申さず当惑仕り候。
一、木挽等差支え候事
此段板前金等借受け、去る御上納辻を始め相凌ぎ、
去る秋中より材木蓄え置き早春より相稼ぎ候家業
の者、差支え迷惑仕り候。
一、桶木・樽木割差支え候事
此段、宮崎村などにては例年春彼岸中に取始め、
雪の上運送仕り候わでは、置捨てに罷成り、是れ
まで仕来りし産業、万一相止み候ように罷成り候
ては甚だ迷惑仕り候。
一、[下糞|しもごえ]差支え候事
此段、至って[麁田|そでん]の村々は、下糞[沢山|たくさん]に相用い申
さず候えば、苗代等取りわけ用立ち申さず、永々
在所を引離れ罷在り候ては、とても御田地仕付け
申すべきよう御座なく迷惑仕り候。
一、牛馬の糞(厩肥)運び方差支え候事
此段年々雪の上に田地・麻畑等に運送致し候えば、
ことごとく人歩(人夫)省略に相成り勝手筋に罷
成り申し候。
一、牛馬飼料差支え候事
此段、牛屋入れ草等の儀、年々入用高を[究|き]め蓄え
置き候処、引越の跡火気これ無く候故、寒気凌が
せ候ため、牛飼いの者共、前後の考弁なしに打込
み飼料仕り候に付、最早入れ草・飼草共に[尽切|つきき]り、
当時(現在)甚だ差支えの所数々出来、是等の儀、
牛番の者ばかりにては中々扶持相及び申さず、牛
主始め一体御返しに罷成り候わば、如何体にも其
の家其の家にて裁覚相凌がせ申すべくと存じ奉り
候。
一、懐姙の者差支え候事
此段、臨月に差掛り候姙婦の者、万一引越候所に
て産を致し候節、帰村仰せつけられ候て一体引拂
い産婦の者ばかり産立て候まで、永々差置き候様
にては、其の所余計の世話にも相成り、難渋の噂
などにては諸事少なからず難儀の筋に相至り迷惑
仕り候。
 以上は帰心矢のごとき疎開者たちが、郷里に帰りたさ
一心に書き上げたという面もある。しかし、このような
非常の大難にあっても、仕事をいのちと思いこんでいる
人たちの尊い考えがこの文章をなしたのである。そして、
冬から春にかけての季節、金山の人たちはこれだけの仕
事をやっていたという労働白書のようなものがここに顔
をのぞかしているといえるのである。
帰村の許可 疎開民の切なる帰村の心情を理解しない藩で
はなかったが、しかし帰村を許可するについ
ては、慎重に事態を見きわめる必要がある。万全を期す
るため、藩では代官の鈴木覚左衛門一行三名を、閏正月
二十三日若松から派遣し、組内村々の状況を、つぶさに
巡視し、安全性について十分検討させることにした。そ
の安全性を確認して代官覚左衛門は、帰藩の途次、二月
十三日、瀧谷において帰村の許可を与える方針を決定し
た。
 次に示すのは疎開先大塩組の触継善蔵と名主宛の書翰
である。野尻・瀧谷各組の触継にも、同様の書翰が与え
られたことは、もちろんである。
 去る十一月以来鳴動相止まず、後難を凌がせ隣組へ移
させ置き候処、追って鳴動[静謐|せいひつ]に相成り。田畑仕付け種
拵え等をはじめ作立大切の時節に相至り、この節帰村致
さず候ては、当作付の別れに相成り候趣きをもって御引
返し下され度く、勿論以後、鳴動気遣わしき儀もこれあ
り候わば、早速引取り候様致すべき趣き再応願出で申達
し候処、一と先ず帰村申付け、作立に取掛り候様、去り
ながら天変ははかり難き儀に候えば、老弱等は先ず残し
置くが然るべき旨、且又、太郎布・三更の両村の儀別し
て危く、家数も少分の村方に候えば、隣村沼沢・福沢入
新田両村の内へ仮りに引取らせ、耕作致し候様とも仰せ
聞かされ候間、右二か村の儀は、沼沢・福沢両村の内へ
引取るべく、さてまた老弱の者残し置き候ては、差支え
もこれあるべく候間、時宜見合わせ然るべき様取計うべ
く、尤も右引戻については、自分共の内引返し出役罷り
あり、農産業世話致し候儀は勿論、この後危体の儀これ
あるにおいては、早速引取らせ候様、旁々厚く仰せ聞か
され出役罷りあり候。右等の心懸共に小前洩れざるよう
申聞かせ、即刻支度、火急に帰村の上作立出精致し候様
よろしく取計候事。
二月十三日 鈴木覚左衛門
まことに情理をつくした文面である。
 こうして、疎開生活まる六十日間の他郷住まいののち
ようやく帰村がかなえられた。覚左衛門の書翰に示され
ているように、太郎布と三更の両村は、ただちに帰村す
ることを許されなかった。太郎布は沼沢に、三更は福沢
に、なお一か月待機せしめられ、ここから通いで作付の
準備その他に当ることになった。三月十七日、九十日ぶ
りで、ようやくなつかしの我が家に落付くことができる
ようになったのである。
 以上、大石組は、水害に引続き未曽有の大
藩の救済
震災にうちのめされた。村民も復興につと
めたが、藩がこのためにとった措置も高く評価せねばな
らぬ。まず、文政四年十二月十日、罹災地見分に来村し
た代官鈴木覚左衛門は、各村の名主に命じ、被害状況の
報告を提出せしめた。これにはそのヒナ形を示し、厳正
な調査の上、書上げるよう、細心の指示が与えられてい
た。これにより、改めて実地見分の上、取りあえず[禿家|つぶれや]
に対しては一戸当り籾四俵と金一分、半禿に対しては籾
二俵と金二朱を手当として与えることにした。ただし、
金は給与したが、籾は貸与であって四か年賦で返納する
というものであった。
 さらに引越先の食糧を支給した。前にもふれた通り、
男は一日五合、女子供は三合の割合での現物支給であっ
た。ただし、味噌は男女とも一人一日二十匁の割で、坂
下値段をもって現金で支給した。この際も支給の公正を
期するために前渡しはせず、いっさい引受先で立替調達
をさせた。そして、帰村に際し、名主から男女の人員と
日数を報告させた上、支給したのである。その額は、大
栗山村だけで(男六四人女五二人)、扶持米七二俵二斗
三升六合、味噌代二一貫二三〇文であった(『大石組地
震一条』)。
 家屋が全壊あるいは半壊となり、自力更生の不可能な
ものに対しては、各村方三役から事情を具して願い出さ
せた。そして、米と金子を、被害の程度に応じて貸与し
た。大栗山では、二三戸の全戸がその資金と米を借りた。
この合計は、米一〇六俵、金五四両、宮崎村では七六両
という多額に達している(中丸文書『地震方始終留』)。
 このほか、引受先に対しては、薪代(世話料)として
一日一人に付六文七分の割で支給した。大塩組(瀧沢・
田沢・大塩・横田・越川・新遠路・鮭立)の場合、それ
は合計二一貫九〇七文五分に達した(渡部尚文書『改所
入用並引越御手当金割合帳』)。その他の諸雑費を合計す
れば、藩の出費は莫大な額に上る。
 こうして、再建の努力が営々と重ねられている矢先、
不幸はまたもやここに襲いかかる。天保の飢饉である。
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 525
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 福島
市区町村 金山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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