[未校訂](肥後天草郡子御成箇郷帳)島原市立図書館・松平文庫
寛政七卯より当子迄十ケ年定免
一高四百四石二斗一升九合 教良木村
内三十五石九升 新田畑
内六石九斗二升二合 ①山崩[川欠川原成|かわかけかわらなり]石砂入引
(中略)
寛政七卯より当子迄十ケ年定免
一高二百十六石一斗六升一合 今泉村
内六十石二斗四升一合 新田畑
内三十一石一斗五升六合①山崩川欠川原成石砂入引
(中略)
寛政七卯より当子迄十ケ年定免
一高二百二十九石八斗五升二合 合津村
(中略)
一田八町歩 ⑭去子高波ニ而海成引 ⑥同 断
(中略)
規定石高の五割前後を いささか解説を加えると、①
年貢として徴収された [山崩川欠川原成砂入引|やまくえかわかけかわらなりすないりひき]とは、
洪水被害による農地損壊分を破免、すなわち課税対象か
ら差し引くこと。(中略)⑭[去子海成引|さるねうみなりびき]とは、海に呑み
こまれた状態の見取田畑を課税対象から差し引いたこと。
寛政四年(一七九二)の雲仙津波による農地被害を物語っ
ている。
雲仙津波の襲来が さらに寛政期(一七九〇年代)と
追い打ちをかけた もなれば、銀主横暴を愁訴し、債
権棄却を嘆願する[直訴|じきそ]や[越訴|おつそ]が頻発した。寛政元年(一
七八九)には、馬場村(現栖本町馬場)弁右衛門、兼蔵、
御所浦村庄助、それに差し添いの棚底村(現倉岳町棚底)
三左衛門の四人が江戸にかけのぼり、老中松平越中守定
信(陸奥白川城主一一万石)に駕籠訴を決行するのこと
があっている(高浜村庄屋上田家文書『御裁許写』)。
あまつさえ、寛政四年(一七九二)四月一日の雲仙大
津波が、天草にも襲来した。いわゆる〝島原大変肥後迷
惑〟と呼ばれた大災害が発生したのである。平潮位より
一丈五尺~二丈五尺ぐらい増の波高によって天草郡の一
八か村が被害を受け、海辺流家三七三軒、損家三五三軒、
溺死者三四三人(男一四八、女一九五)、牛馬流死一〇
九頭、田畑損壊六五町八反一畝歩。この時、島原松平領
の死者九五三四人、肥後細川領の同四六五三人、これに
天領天草分をふくめて合計一万四五三〇人にのぼる人命
が有明海に呑みこまれたのであった。その一部は、早崎
海峡、千々石灘を越えて天草灘の高浜村にまで七人が漂
着(隣(カ)峰寺境内慰霊碑碑文)、また柳ノ瀬戸から阿村大
戸ノ瀬戸を流れ過ぎ、不知火灘の舞浦村永目浦に打ち寄
せられた漂着死体、土地の人々が言う『寄り人』が一〇
体もあがっている。この時の惨状を、真宗霊光寺の過去
帳は「右永目浦ニ流レ寄ル人、住所不知トモ結縁ノタ
メ法名ツカワシ誦経相勤メ申シ候」と記録している。
天草の被害は、津波をまともに受けた大矢野島の七ツ
割や、入江になっている地形のため津波が増幅して陸上
へ奔騰した須子村(現有明町須子)などで惨状を呈した
(上津浦・正覚寺文書)。われわれの郷土でも、たとえ
ば合津村など、天草預り島原藩の松平文庫『肥後国天草
郡[子|ね]御成箇帳』(島原市立図書館所蔵)によると、一二
年後の文化元年(一八〇四)にいたっても見取田八町歩
が「去る子年高波にて海[成|な]り引き」、その他見取田一町
四反一畝一五歩のうち一町歩と見取畑六町六反三畝一五
歩のうち六町五反歩が「去る子年海成り引き」と記録さ
れている。
この大惨事の直後、島原城主松平主殿頭[忠恕|ただひろ]急死(一
説切腹)、主計頭[忠憑|ただより]が襲封し、引き続き幕府直轄地天
草領を預ることとなった。島原藩では自領ならびに天草
の災害地復旧を計るべく、天草に関しては公儀筋から借
り入れた金子四〇〇両を被害村々に割り下げる等の努力
をつづけたが、百姓の暮らしはますます困窮の度を加え
るばかりである。富岡代官所筋や村役人たちは、このよ
うな世相を憂慮し、その打開策について検討をつづける。
時あたかも、老中松平定信による〝寛政の改革〟の時
代である。寛政元年(一七八九)九月には、蔵米取りの
旗本や御家人の勝手向き救済のため、蔵宿借金[棄捐|きえん]令が
出されている。徳政がムード化しつつあった、そのタイ
ミングも良かったわけである。