[未校訂](波切地蔵の項)
それを裏付けるような古記録が新熊の田中家にある。
同家には、延宝津波によって幼い生命を失った子女の位
牌があり、その裏に次のような添書がある。
「延宝五巳天十月九日津波㚑(侵の意)水夜八時過富士嶋地蔵根
迄登人馬多数死」とある。
位牌の添書がいつのものかはっきりしないが、これに
よれば延宝津波のときすでに地蔵はここにあったことに
なる。
この時の津波による死者を弔うための供養塔が新熊部
落青年館前に建てられている。この塔は今から二八七年
も前に建てられたもので、時の経過と共に石苔に包まれ
てはいるが昔のままのお姿である。
供養塔の表には、
十百万返成就 施主 一四三人内男 七〇人
女 七三人
元禄七年甲戌十月 日東浪見新熊、原、入鉢
と、刻まれている。津波災害から十七年後の造立であ
りおそらく親類縁者が百万遍念仏を唱え供養するために
建てたものであろう。