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項目 内容
ID J2400275
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1637/12/22
和暦 寛永十四年十一月六日
綱文 寛永十四年十一月六日(一六三七・一二・二二)〔新潟県津南町〕
書名 〔津南町史 通史編上巻〕津南町史編さん委員会編S60・9・1津南町役場
本文
[未校訂]二 地震と災害
鍋倉・堅木山の地崩れと田沢村・原村の埋没 寛永十四
(一六三七)年十一月六日の夜大地震があった。今から
三四〇余年前のことである。折悪しく初冬の候であった
ため、地盤がゆるんでいたらしく、[鍋倉|なべくら]・[堅木山|かたぎやま]で地崩
れが起こり、土石流は田沢村の田・畑・家屋(当時三戸)
を崩壊し、さらに多量の泥土は、谷を埋め田沢川を[堰|せ]き
止めた。二〇日ほど経て満々とたたえられた水は、土石
とともに濁流となって流れ下り、下手にあった原村を襲
い田畑を埋めつくし、家屋(当時、八、九戸)を一戸残
らず埋没してしまった。『中魚沼郡誌』(大正七年刊)・
『外丸郷土史』(昭和三一年刊)に概略次のように記され
ている。
 寛永十四年十一月六日の夜五(午後八時)つ時大地震が起こった。
時あたかも初冬であったため、数日来の暖気で雪水がに
わかに土地に浸みこんだのが原因らしく外丸村本村地内
田沢入鍋倉、堅木山と称する所から土崩れが押し出した。
その土砂のため当時家数三戸の田沢部落は、家もろとも
あとかたもなく浚われ山のような泥土は田沢川に流れこ
んだ。堰き止められた川水は二〇日間も溜った。山麓の
原村はそれと気づかず、田沢川の水の[涸|か]れを怪しんで雪
を踏みわけて登って見ると水は満々として、決潰寸前の
状態になっている。あわてふためいて急を告げたが時既
に遅く、家財を半分も運ばないうちに、土石流は渦を巻
いて村を襲い、八、九戸の家屋は一戸残らず泥土に埋め
尽されてしまった。現在でも時折地下数メートルの所か
ら、当時の器物が発掘されることがあると言われる。外
丸小学校前にあった方五メートル余の巨石は、この時に
流れ落ちたものであり、田沢川もこの地崩れのため、字
[越|こし]から真東に流れていたのが現在地に移った。
 ここに書かれている小学校前の巨石は、後に刻まれて忠
霊塔となり外丸の善玖院の前方に建てられている。また別
の大石は畑の中にあって「二十日石」と呼ばれ、この石の
頭部が雪上に現れると、二十日後に平地の雪は消えるとい
われている。
 その他の被害 なおこの地震のことは、津端一郎家「先
祖書の事」の中で、原村・田沢村・板山村は壱名の所であ
り、寛永十四年丑霜(十一月)月六日の晩の大地震の土などで退転し
たと記されており、その地震による被害は、外丸本村は原
村分一六四石余、田沢入分一九石余、辰ノ口村は舟つなぎ
入で一三石、小岡・押付・巻下村では巻下分五石八斗余、
板山で三石八斗、岨滝で八斗余であった。
付記 地震記録は寛永十三年とする文書もあるが、公
文や丑年であったことから十四年とした。なお板
山・岨滝・巻下分の被害の状況を詳しく記したも
のは見出せなかった。
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 55
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 津南【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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