[未校訂]八、津浪
津浪については、鎌倉時代の初期に当る貞応二年(一二
二三)天然の良港だった十三は廻船式目によって、日本七
港中に定められた。また、養老四年(七二〇)津司が配置
されたという、古文書の十三往来、十三新城記によれば、
商家一千軒、年間一〇〇万金(一万五千キロの金)の取引
があったといわれ、それに民家や三千人からの山伏行者が
居て、相当繁栄し、当時の十三は津軽屈指の町であったと
いう。ところが南北朝時代の興国元年(一三四〇)大津浪
で破壊し、廃虚となって了った。この津浪による死者は一
〇万人とされており、当時の十三を支配していた安東の殿
様は直ちに港の再建に着手一応完成したものの津浪で埋れ
た水戸口の変化は著るしく、遂いに港として適さなくなり、
現今の漁村となり果てたという。
この破壊の事実は、後年幾多の寺院跡から出土した一尺
七寸(五六センチ)の鉄釘やその他の器物によって、当時
の規模の拡大さが推測される。その頃、車力村も十三領域
であったが、山林地帯には可成りの被害跡があり、それが
ため、大きな地変があったと思われる。車力本村の西浜の
排水川とされていた阿闍羅川も津浪で埋もれ、異変して、
今は唯残る阿闍羅河口の名のもとに、砂丘の底から川水が
ゆっくりと日本海に流れ出ている。