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項目 内容
ID J2200118
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1361/07/26
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1361/08/03
和暦 康安元年六月二十四日
綱文 正平十六年六月二十四日(一三六一・八・三)〔畿内・阿波・紀伊〕
書名 〔大阪編年史 一〕
本文
[未校訂](細々要記 五)
六月十八日ノ比ヨリ、毎日五七度ニ至リ、大地震。畿内・近
国・遠国ニ至ルマテ山崩レ、堂塔倒レ傾キ損ス。南都同様、
金堂・南円堂破損。廿日午ノ刻ノ地震天王寺ノ金堂テン倒ス
ト云々。下旬ノ比、阿波ノ国高ノ湊ト云所高塩俄ニミチ、在
家数千軒海ニ沈ミ、男女数万人死スト云々。廿三日巳ノ刻、
俄ニ空クモリ、雪降、寒気寒風身ヲ切カコトシ。去ヌル十九
日、天王寺ノ金堂テン倒ノ以前、難波ノ浦ヨリ大龍二ツ浮ヒ
来リ、金堂ノ中へ入。其後雷電ヲヒタヽシク、大地震シテ金
堂テン倒(イ本、京都ニモ東寺ノ金堂テン倒スト云々)スト云々。南方ニモ、コノ天災ニョツテ、御慎御祈
等ヲ仰下サルト云々。
(参考)
(摂津名所図会二
東生郡

荒陵山四天王寺金堂南大門の内にあり、桁行京間八間六尺
二寸、奥行七間五尺七寸、南向なり。
本尊如
意輪観音金銅
尊容
・弥勒仏・四天王十二天画像・波羅門像六形・
宝塔一台仏舎利一粒
を安置す。
太子御真蹟本願縁起曰、金堂に救世観音像を安置す。百済国の王、我
入滅の後恋慕渇仰して造る所の像なりと云々。斯いふ事ハ、太子の前
身ハ、百済国の聖明王にて、如意輪の化身也。其子威徳王、父の王崩
じ給ふを深く歎かせ給ひ、此尊像を作り、御在位の如く孝養せさせ給
ふ。我朝に、聖徳王出誕とあるを伝へきゝて百済国よりわたさるゝな
り。又四天王の像、西にむかひ給ふハ、これも本願縁起に曰、百済・
高麗・任那・新羅ハ、みな貧狼の情、恒にもつて強盛なり。かれらの
国を降伏せしめんか為なり。殊にハ、代々の王位を固守護して逆臣な
く、忠貞を勧めし
めん為なり云々。
九月二十四日 四天王寺金堂ヲ修造ス。
(太平記 卅六天王寺造営の事)
南方にハ此大地震に諸国七道の大がらん共の破たる躰を聞
に、天王寺の金堂ほどくづれたる堂舎はなく、紀州の山々ほ
ど裂たる地もなけれバ、此外の表示にハあらじと御慎有て、
様々の御祈共を始らる。則般若寺の円海上人勅を承て、天王
寺の金堂を作られけるに、希代のきどく共多かりけり。まづ
大厦高堂の構なれば、安芸・周防・紀の国のそま山より、大
木を取んずる事、一二年の間にハ道行がたく覚えけるに、二
人して抱き廻す程なるひの木の柱六七丈なるかぶき三百本、
いづくより来る共知ず。難波の浦に流れ寄て、汐の干潟にぞ
留りける。暫ハ主ある材木にてぞ有らんと、尋くる人を待け
れ共、求めくる人もなかりけれバ、扨ハ天龍八部の人力を助
たまふにてぞ有らんとて、虹の梁・鳳の甍、しな〳〵に是を
ぞ用ける。又柱立すでに終り、棟木を上んとしけるに、搯巻
の綱にしなの皮むき千束入へしと、番匠麁色を出せり。たや
すく尋出すべき物ならねバ、上人信濃国へ下て、便宜の人に
勧進せむと企給ひける処に、難波堀江の汀に、死虵の如なる
物流れ寄たり。何やらんと近づきミれば、信濃皮むきにて打
たる大綱、ふとさ二尺長さ三十丈なるが、十六筋まで水の泡
につらなつてそ寄たりける。上人斜ならず悦んで、頓て搯巻
の綱に用ひらる。是第一の奇特なりとて、所用の後ハ此綱を
宝蔵にぞ納め給ひける。又三百余人あるける番匠の中に肉食
をやめ、酒を呑ぬ番匠数多あり。上人あやしく思ひ給ひて、
是がする業をミ給ふに、一人のする業、余の番匠十人にも過
たり。されバこそ直人にてハなかりけれと、弥怪しくおぼし
て、日暮て帰るを見送り給ヘバ、いづくへ行とも見えず。搔
消やうに失にけり。其数廿八人有つるハ、何様千手観音の御
けんぞく廿八部衆にてぞおハすらんと、皆人信仰の手を合
す。されバ造営日々に新にして、寄簾金銀を鏤たり。霊仏の
威光、上人の陰徳、函蓋共に相応して、寄特なりし事共也。
出典 新収日本地震史料 補遺
ページ 24
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大阪
市区町村 大阪【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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