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項目 内容
ID J2100356
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信濃・越後西部〕
書名 〔御殿場市史料叢書 二〕○静岡県S52・9・30 御殿場市史編さん委員会
本文
[未校訂](名主日記)山の尻村(現御殿場市)
弘化四年三月
一廿四日卯 天気上々よし、内左衛門あらくれゆい、三郎左
衛門代又わせにどなりまき申候家ノ南なすぐら脇へまき申
候、扨又夜四ツ時中大成ル地震ゆり申候、又九ツ時頃ゆり
申候
一廿五日辰 天気上々よし、夜明ケ方ニ又ゆり申候、此度之
地震ハ日でりと相見へ申候、然処ニ九ツ時より雨ふり申
候、又八ツ時小地震ゆり申候、又八ツ半頃ゆり申候、又夜
入五ツ頃ゆり申候
一廿九日申 天気よし、朝之明ケ六ツ時頃地震弐ツ程ゆり申
候、当年苅敷初メ、南山ハ四月十四日初メ、西ノ沢ハ十九
日ニ初メ申候様相談相[究|き]メ申候
一晦日酉 天気よし、久成寺隠居様・恵弁両人おとみ晦日ニ
而御題ニ被参申候、夜入御返被成候、又七ツ時地震ゆり申
候、扨又承り申候得は、御殿場之者信州善光寺へ参詣ニ参
り申候処、折節去ル廿四日より地震ニ而死去致し候様承り
申候、尤人ハ同行七人ニ而参り候処、上町亀藤殿ハ壱人残
り、跡六人死去致し候様承り申候、信州辺ハ格別地震厳敷
様承り申候、御殿場ハ大変之咄しニ御座候
(四月)
一三日子 天気よし、助十郎小田原江宗門帳面御改ニ付参り
申候、又伊藤蓮正寺参り申候、みやげ物手拭持参ニ而、右ニ
付銭弐百文遣し申候、扨又御殿場之者信州善光寺ニ而地震
ニ而死去致し候ニ承り申候、又々我等せ戸花畑ケ之[畔|くろ]ニ而
[雉子|きじ]之玉子取申候、直ニみそずけニ致し置申候、又々甲州
之僧一宿仕度と申候ニ付、無拠宗門之僧ニ御座候得ば、教
蔵寺へ泊り(ら)せ遣し申候
一四日丑 天気よし、男西沢へ薪木取りニ参り申候、扨又当
年ハ郡内ニ而も桑大きニ霜ニ而之かれ申候て、蚕あしらい
川流し、又ハ土へこめ申候と承り申候、右ニ付くわ壱駄甲
州ニ而ハ金壱両三分位仕候と承り申候、扨又御殿場者信州
ニ而死去之銘々子供并親類之者又々残り多しニ付、依而信
州へ女連れニ而五・六人参り、其原之土成共持参致し申度
と申、参り申候様承り申候、左様ニ小田原表へ御窺申上候
処、御掛り様ニ而之御咄しハ、[聢|しか]と信州へ参り、其上ニ而
色々取調致し、聞せ申可と仰付候、右ニ付ハ、名主平右衛
門殿三十日之間御ひ(暇)間被下候て信州へ出立仕候様承り申候
今日地震ゆり申候
一五日寅 天気半日よし、夕方ハ雨ふり申候、又々あら堰
ふじん(普請)仕候、男ゆいあらくれ広蔵方へ参り申候、又々信州
辺ハ地震ニ而丹波川押流れ、同国松本へ押出し候様承り申
候、毎々少しづゝハ地震ゆり申候、今日も八ツ頃寄り申候
一十八日卯 天気上々よし、女助左衛門方へ田植ニ行、又古
屋敷南明頭分七郎左衛門預ケ置申候処、此は此間自病ニ付、
田仕付候義難相成と申候ニ付、彼是七郎左衛門家内大キニ
六ツケ敷御座候、右ニ付我等方ニ而勘弁致し、古屋敷南頭
半分我等方へ引取、手作可致、半分ハ七郎左衛門作り可申
筈ニ[弥々|いよいよ]と取究申候、扨又桑木村山苅敷初メ番廿二日之手
紙今日相返り申候、桑木より直之手紙ニ御座候、当村より
清後へ遣し、扨又承り候は、信州ハ去ル地震ニ而丹波川大
キいかり、十三里四方今夕いかり居り申候様咄し御座候、
又我等もニ引、須走きそ仕立申候
一廿日巳 天気雨ふり申候、ならいニ而御座候、扨又信州善
光寺前町地震ニ而不残潰れ、又火難ニ而皆やけ、人多く死
去致し候様、又丹波川堰留り、今ニ至り一向通り行無之様
承り候、是ハ真田様御領分之様子江戸表へ度々御願申上候
得共、一向御見分無之咄し承り申候
一廿五日戌 天気よし、くもり申候得共、あたたかなり、又
四ツ時地しんゆる又雨ふり申候
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻6-2
ページ 1829
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 御殿場【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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