[未校訂]袴田豊家文書
嘉永七甲寅十一月四日大地震記
堤村尾
嘉永七甲寅年冬十一月四日天気静かにして風もなし。少し
曇空なりける。此時四方よりドロドロと云う声ありて大地震
動して来る。家倒れ、地は波のうつ如く、道路田畑さけて泥
水を吹出す所もあり、えみ口(さけ目)は一、二寸(3~6
㎝)より五、六寸(15~18㎝)ぐらい、もつとも近郷には三
尺(90㎝)余りもえみし所も数多(あまた)あり。草木動揺
して天地もくだくる如くなり
この時に至りて老少男女申すに及ばず、壮んなる者に至る
まで、ふるい怖れて我家をころびでて、只這いまわる斗りな
り。立つ事もならず、歩む事も叶わず、互いに取ついて、顔
色も変り生きた心地はなかりけり
暫時の間に当村三百余軒の内、本家を倒し、或は庇を落し、
土蔵物入等に至る迄損ずる事凡そ百余軒、其余もゆり動かし
て正しく立つ家はなし。誠に前代未聞の地震と周章する事お
びただし
しばらく有りてゆり止みぬ、なれ共、小ゆり折々ある故に
人々心安からず、思い思いに竹藪等に小屋をしつらい、我ま
しに難を遁れん、身を全うせん事を専要として移り居れり
次の日、五日の夕方七ツ頃(午後四時頃)西南の方に当り
て物の響く声あり、山の崩るる如く大波の至るが如し。人々
云う「津波来る、荒井(新居)舞阪辺迄は既に陥(お)ち入
りぬ、」
と云うて怖れあえり。甚だしき者は上の村上の村へと逃走
り、尾野金毘羅山の山に登り難を避けんとする者千余人
後にて、坂を逃る姿を真似する人あり、おかしかりける風
情なり。此の物音、大阪にて聞きても西南に聞え、四国の
内、山崩れ地さけ、水出でし所ありと云うと
小地震折々あり数うるにいとまなし。中ゆり十日頃、十四
日、廿三日、廿五日、廿八日、極月(十二月)もおりふし有
り
是に於いて改元有りて安政元年と云う御触れあり。さも有
るべし、怖れ恐るべき年なりける。夏六月十四日大和奈良
辺、勢州桑名四日市坂ノ下辺迄、江州日野八幡辺大地震、其
跡冬十一月迄小ゆり絶えず有りて、今度、又四日の大ゆり有
り、夏強き所軽し、夏軽き所は強し、倒家数多(とうかあま
た)ありと云う
年も漸く暮れて安政二年乙卯正月となりにけり
七日夜五ツ頃(午後八時頃)中ゆりす。此時も又人々恐れ
て家を出る者多し、暫時にて止む。此後も小ゆりあり、猶未
だ収まらぬと思い侍(はべ)りぬ
附大小ゆる毎にドロドロという声あり
(各地状況聞き書き)
一浜松東海道筋道上、中郡(東)天竜川限、西原(三方原)
限、二又(二俣)辺、原西祝田金指、東森辺当村に准ず
一東海道道下、馬込川東浜辺通り天竜川限り当村より一段強
し。
一天竜川東、池田辺中泉見付欠塚(掛塚)辺倒家凡そ七分通
りと云う。
一二ノ宮横須賀辺倒家八九分通り。
一袋井欠川(掛川)山梨等皆倒れの上焼失す。
一阿多古奥秋葉山辺に至れば緩し、奥程緩し。
一気賀辺緩やかなり。
一浜手通り、欠塚(掛塚)辺より荒井(新居)辺迄津波の難
甚だし。沖より大山の如く打来り、汐除堤等崩れこみ既に
舞坂東馬郡の間は新田場は切所となり、今切口は大きに荒
れ広く深く成る由、大海同様の波立つと云う。
五日津波の節は舞阪西弁天山の松の上を大船二艘吹寄せ
られ、のり越えて漂い通り村櫛と山崎とに懸りし由、前代
未聞(ぜんだいみもん)の事どもなり。
平日汐高き事三尺(90㎝)余、海荒き時は五、六尺にも
及ぶと云う。総じて入江通り魚逃げて魚猟なし。
一相良岬辺は海浅瀬、汐引き駒ケ嶽常に見ゆると云い、尤も
魚猟は少しなり。
一三州田田原辺津波もつとも強しと云う。
一豆州下田津波強く町家大半引かるると云う。
一駿州は嶋田宿より箱根関西迄宿々強き由、焼失等数ケ所あ
り。
一大阪地震は中通り津波強く来り家多く引れし由聞ゆ。
一四国地震強き由。
一中国安芸、肥後豊後辺もつとも強きと云う。
一関東は大きに軽き由。
一江戸右同断。
一信州松本飯田辺は当村に准ず。
一三州奥筋は尤も軽しと云う。