[未校訂]第三節 安政の地震
安政五年(一八五八年)二月二十五日朝八つ半時(午前三時
頃)地震があつた。それより余震は頻発して十日ばかりはや
まず。その二十五日の如きは霞ケ城天主閣東方の鯱を落し丸
岡町及び金津町などは夜地震が強く、丸岡町のみでも次の被
害があつた。
十軒町長屋(藩の建物で藩士の住宅に分貸せしもの)両側と
も及び五軒町に二軒、金津口に三軒、小人町に二軒の倒壊家
屋があつた。八幡町に地割が生じそこより青砂を出し噴水し
た。家屋その他の建物は悉く傾き、各家の水がめの水は傾出
し、小器は倒れ、特に油つぼの置場に困つた。但し幸に火事
はなかつた。
各家では地震よけ小屋を作り住むこと月余特に三月三日の如
きは、大雷風雨のため小屋の中は漏り、住宅に入れば地震の
恐れがあり皆進退に苦しんだ。(丸岡町史による)又橘曙覧
書簡集に「夜地震よほど強く御座候。大聖寺・金津・丸岡な
どはまだまだこの地よりは強く、民家つぶれ候もあまたこれ
ある由」と出ている。