[未校訂]十月四(カ)日
当二日夜江戸大地震にて出火凡七分通り焼失、火の出処数十
ケ所程、日本橋辺残る、野中本郷領へ飛脚来る由、東海道飛
脚をびたゞしと申事、今日吉原宿を通る、抜早打凡三百人宿
役人ゟ往来へ子供を出す事禁ず
片浜ゟ段々沼津三島へかけて地震つよしと申事也
六日丙申一ヽ晴天 今朝地しん野中村ゆる
今日江戸ゟ便りあり欠端村ふじや磐蔵殿来る高仁殿状持来
る
当二日夜四ツ時大地震橋本町津久井屋二階に高仁・高作両人
居たる時震止、其後二かいを下る荷物を馬場へ出し置、右宿
の辺には出火なし、火の見へ上り見物するに凡四十八ケ所程
火の手相見へ候、深川本店辺火の手盛んに見へ、下谷辺の火
の子少々飛来る、吉原丸焼、両丸無事、八方火の中にて幸に
無難なる内手紙文言なり
(十月九日)
高瀬米太郎に啓飛(蔵)殿名当の手紙を見る
江戸便り菅久殿幸便にて高仁殿ゟ手紙、両丸火難なし、御門
崩る、浅草観音様仁王門雷門共に無事也、坊は皆潰る、御屋
敷方潰多く、丸焼半焼数しれず、松平豊前様奥女中皆焼死、
其内御娘子と女中三人助る、此類多く三十人・五十人の奥女
中焼死たる大小名数しれず、本郷様丸焼、宝物金銀土蔵の焼
亡、穴蔵の金銀は無事、屋敷方の死亡財宝焼失言語同断不量
也と申事、町人には御成道広小路松坂屋呉服店土蔵廿壱ケ所
焼亡、是に準して土蔵は大てい崩れ又焼亡也、中には半道斗
りの町家の内に土蔵二つ三つ崩れ残り見ゆる処もあり、人死
道に多く、怪我人数知れず、吉原丸焼人死候人別四分通り焼
死す、中町松葉屋人別弐百人、遊女百二三十人、右人別の内
三人斗り助り、其外焼死す、是に準して察し思ふべし、田町
辺人死施主なき分は道端にたおれ火ふくれになりて多くあり
四日に高仁殿吉原見巡る処、土蔵の壁落候下より駕に乗たる
客と駕かき人足ともに死たるを掘出す、又おい加と申名高き
芸者吉原町美人とたいこ持男を死骸掘出すを見る、火ふくれになつて死
あり、其外吉原の大災目も当られずと申事
御門跡は無事と申事
右の向の手紙也
此節江戸に搗米なく玄米を弁当に焚出すとそ
毎日施主なき死骸を車に積て寺へはこぶ由也
江戸地震西は加奈川限り、東へ行程強しと申事也、千住辺は
別して強く、総州路は江戸ゟも強きよし
江戸焼跡施主なき死骸車に積て行車一挺へ三十六人宛乗る
吉原ゟ寺へ十二挺の車にて七日はこぶと申事也
江川様本所御屋敷潰れ出火なし
江戸屋敷方にて遣ふ大工職人等一日に金壱歩つゝ平人足日雇
一日に壱人弐百文宛右にて人なしと申事
江戸地震大火の節下総佐倉堀田相模守殿我家に不構供壱人連
其儘御登城被成、公方様を吹上御殿へうつし奉る、第一番に
欠付也、其功に依て此度改て御老中御出頭被仰付候由、安倍
伊勢守殿ゟ仰渡し
十二日壬寅四ヽ晴天
野中地頭
本郷様焼失丸焼、穴蔵のこる
前田様潰れ出火せず
江戸大荒にて土蔵焼潰分跡なき分凡拾万余と申事、石灰値を
持べしと評判
人の死亡未た不知、毎日屋敷〳〵ゟ死骸車にて出すと申事
焼死候骸を又々焼て灰となし寺へ送る
十月十九日己酉六ヽ晴天
江戸土蔵の落候分町家屋敷寺社等凡五拾壱万余と申事、其内
焼落候分凡十万程人死人別日々書上中
江戸五里四方町数五千四百余町也、是を一筋の宿に直す時里
数百六十里廿町家つゞくと申事