[未校訂]凡そ天には風雨雷雪の変あり、地には地震山崩海溢の殃あ
り、家には盗火病疾の難あり。人その中にありて、能く是
を解脱するは、全く神祗の守護と、先祖の積善と、その身
の徳行との致すところならむ。爰に、明治五壬申年二月六
日申剋に地震ありて、山岳を崩し、海水を溢し、舎屋を倒
し人民を亡すこと古今曾てあらざるの大変なり。其の大概、
石見は最も重く出雲・安芸・長門は漸く軽し。又、石地の
中に就いて那賀は重く、邇摩・安濃・邑智は是に次ぎ、美
濃・鹿足は漸く軽し。又、一郡一村の中にも軽重あり、大
家あたりは、数村改易に等しく長浜は地墜ちること凡そ、
四尺にして潮来り、原井は地高くなりて、浪数十歩退く。
外浦の海溢、江津の逆流、大貫の大潰を始め、嵩岱は形容
を変じ嶋嶼は高低を為し、潮水の鳴ること夥しく、海底こ
とごとく裂け、地中より土砂を吹き揚げ、井戸より水波を
涌出し、河流塞つて、潭淵となれば、水脈変つて水陸を換
ふ。溝瀆は橋梁を落し、街道は馬蹄を停む。此の時にあた
りては、鳥も翔ること能はず、獣も走ること難し。就中、
浜田の市中は新春を迎へて、人意も長閑なるに、別けて、
大平の恩沢に浴し、殊更昨年の豊作に、家々の賑はひも大
概ならず。此処の遊山、彼処の会飲と発起あれば、造営修
理に職人日雇の閙しく駆廻るあり。磯菜摘むと袖振りはへ
て相倍を争ふあれば、墨入土筆に瓠を携へて独吟を楽しむ
あり。稚子は凰巾(ママ)に我を忘れ、老婆は仏参りに杖を劬し、
慶封の軒には、賄賂に間なく、嫦娥の室には新声に意を♠
む。
斯かる栄耀を、浦島が玉手箱、蘆生が邯鄲枕と等しく一時
に覚めぬる次第を尋ぬるに、夕飯を焚くころ、軽くはあれ
ど長々と動きしが、去る安政の頃の三度の地震に馴れて、
珍らしからざれば、何の用心も無くてありしに、半時ばか
りして、凌冷き音(ママ・すさまじ)と共に天地も崩るゝが如く震ひ出づるに、
建てつゞけたる家々片端より倒れ、親を助け、妻を救ふ術
なく、兄弟は在所を異にし、児孫は行方を失ひ、唯、銘々
の身命を助からむと、周章てて奔走るうちに、其所より此
処より火出でて焼け上り、鬢髪を焦し、手足を爛し、息も
絶えぬに火炎に咽びて悶え苦しみ、棟梁に腰を打挫て泣き
叫ぶなど、目もあてられぬ有様なり。斯くて新町の袋屋の
あたりより火出で、次第に焼け延び、八百屋とて、間口二
十間ばかりの大家を始め、凡そ、四十軒ばかり[檐|のき]を並べて
焼け失せ、田町は浜田の入口にて、平日の繁昌も大概なら
ず、持丸も、此処に集り、家居も美麗なりしが、是も残り
なく一時の火焰となれり。神社は、鳥居・夜灯を倒し、寺
院は、光西寺・観音寺・洞泉寺・宝福寺・地久寺・玉林寺
を始めとして倒れ、庫裏・鐘楼の転れたるは数ふるに遑あ
らず。其外、県庁の諸役所を始め、御住居より次々、市中
端々の小家に到るまで、残少なに転倒れたり。其が中に、
最も憐れなるは、新町の長橋屋藤助とて、夫婦に子二人あ
りたるが残らず焼け失せ、道具屋庄次郎といふは、夫婦に
子供下女と六人なるが、庄次郎一人助かり、残り五人枕を
並べて焼失せたり。是に就いて誰か作しけむ、庄次郎に後
妻をすゝめて、「前妻によく似たる女あり、媒せん」と言ふ
に、庄次郎固く否むを、何故に否むぞと問ひたれば、「さら
ば、似たるより焼いたるが宜し」と答へたりとぞ。是は、
似と煮と、訓通ふより疾く作意したるものなり。又、石見
屋幸助といふ旅籠屋あり、大森の某、金を六千円ばかり持
来り、洗足する間に、例の地震にて一円も残らず灰とせり。
牛市の沢屋甚助といふは、子の生れし七夜の祝とて、近所
の者を請待して酒宴半ばなりしが、来客十四人ばかり同席
に手を携へて焼け亡せぬ。此の中に沢屋常吉といふ者の姉
に、おのふとて四十三歳なるがあり。常吉は、以前、長門
国伊佐に行きて、当今まで在住せるが、姉のおのふ、尋ね
来り、又、須臾にして見失ひしかば、常吉は、不審に思ひ、
十日の日、浜田に来り尋ぬるに、おのふは、十四人の中に
て、甚助方にて焼け亡せたり。されば、其の霊魂、弟常吉
の伊佐に在るを慕ひ行きしと思はる。田町の白屋といふは
大家なるが、数多焼け亡せたる中に、親を助けむと、辛う
じて漸く救出して見れば、其れにはあらで、碁打法師にて、
遂に親を助くること能はず、又、嫁の棟梁に足を挟まれた
るを救はんとせしが、かゝる折なれば、誰一人助力するも
のなく、手段に暮れたるうちに、火焰来れば、夫も、力及
ばず、迚も遁れぬ処なればあきらめよと言ふに、然れば来
世にて会はむと泣涕にて別れしとなむ。此の外、憐れなる
死を遂げしは数多あれど、さのみ記さず。
右の廉は、今、茲に記すにも、胸つぶるゝを、其の人々の
上にては、如何にあるらむ。読人、察しやるべきなり。右
に反し、不思議に助命せしもあれど、今は記さず。又、不
幸の中の幸もあり。其れは紺屋町あたりの小家なるが、兼
て、嫁にせむと約束してありし女、此の夕べ方、居風呂に
入りし折柄、例の地震に赤裸にて走り出でたるが、立ちよ
る方もなきまゝに、兼ねて約束の家に依頼して終に嫁とな
れり。裸の嫁入りといふことも、世間に、まゝ言へど、実
の裸嫁入は是なるべし。さて斯かる愁歎の中にも、道なら
ぬ人もあればありて、倒屋に窃に入つて、金銭を盗み、貲
財を運ぶを名として奪つたり、又、ある寺の住僧が巧み、
震災に遇へる人を救はんとして、本尊が瘡を被り、血の涕
を流したりと偽り、銭を集めんとせしが露見して御咎を蒙
れり。世間には、様々ありて、油断のならぬ事なりかし。
かくて、親を慕ひ子を尋ね、即死怪我人を背負うて行くも
あれば、骨骸を袖につゝみて帰るあり。偶々、生き残れる
も、雨降り風吹けども、身を依する所なく餓労れても飯を
たく鍋なく、食を盛るにも器なく、此の末如何に成行くら
むと、安き心もなき折柄、県庁には大橋河原に長屋を数箇
所建てられ、殊に病院を設け、幸ひ津和野より、横山需と
いふ外科の医に神田友軒・三浦周鼎といふを加へて、怪我
人の治療を始められ、即死の者には、葬送料として金二円
宛賜はり、飢えたるものには、飯を賜ひ、又、男に米三合、
老少婦女に二合づつ数日宛行はれ、仮屋を建てるには、竹
木縄藁を下され、その外在中の溝・水除・堤・街道の損し
たるには、夫役の扶持米を賜はり、殊に非常を禁め、盗賊
の探索を厳重にせられ、何から何まで堕つることなく御世
話に預り、殊に、馬関御行在の砌は三千円を賜はるなど、
天朝の広き厚き御恵は、なか〳〵申す迄もなきが、一には
県庁の御美政によることにて、難有しとも、難有きことな
りかし。此の時、管内の田畑荒所千三百九十七町九反五畝
十歩、潰家四千五百八十八軒、半潰家八千三百六十五軒、
焼失家二百十四軒、郷蔵幷土蔵三十二棟、死人四百九十八
人、怪我人七百五十五人、死牛馬百十三匹、同怪我七十五
匹、堤防七千四百十五所、道路橋梁五千三百四十四所、山
崩五千八十八所、外、美濃郡の追届道路・橋梁・堤防・田
畑・岸損千十五所とぞ聞えし。さてまた、かゝる時なれば
にや、馬嶋の厳島社の扉、自然と開き、外浦の金刀比羅社
は宮殿は海中に倒入りしに、御神体は岩上に屹立して坐し、
原井の八幡宮よりは、白鳥が一双出たり。此等は目前に人
の見たる事なるが、その外、誰敲(たた)かぬに鼓鳴り、人の奉ら
ぬ御灯が明りなど、其所にも此所にも数多ありて、今、記
すに遑あらず。中には疑はしきも無きに非ざれど、仮令、
虚誕にもあれ天もの言はず、人をして言はしむる諺の如く、
世間の流言やがて、神の言はしめ給ふならむ。さるは、去
秋より「神鳴がら〳〵、地震はゆらゆら」と謡ひしも何と
か神意あるごと思はれ、又冬の頃より何国より言出でけむ、
河上に猿が三匹出て、川向の赤小豆を三合替へて喰へば災
難を免ると言ひしとて、出雲あたりより漸々に言伝へて、
家並み為せしが、中には浅猿しき事に言ひ、嘲笑ひし類も
ありしが、果して此の変あり。殊に、申ノ年、申ノ日の申
ノ剋なるも、彼の、猿が三匹出てといふに由ありて、窃に
奇霊く思ふことなり。惣べて、人の偽り構へたる事は、如
何にも道理至極に聞えたるも、自然と合はざる所あり。神
意に出づるものは、理合せず浅々と聞えたるも後に思ひ合
することのあるものなり。是に就いて珍らしきは、那賀郡
日高村に家名を杭木と言ひ、亭主は三十五歳にて菊次と言
ひ、妻は二十六歳にてたきと言ふ。男子二人あり、兄は八
歳、弟は二才なり。夫婦とも正直にて便口少きかたなり。
二月二十九日のことなるが、菊次は小串といふ家に雇はれ
往きて家には、妻と子ばかり居りしが巳刻ばかりに、二才
の子に乳を含むと、囲炉裏の側に伏居たるに、内庭に聊か
物音したるを、顧みれば、惣髪の、身長七尺ばかりの大男
あり。驚きながら、畏さに堪えず見ぬ振にて、やはり伏居
たるに、彼者いふには、来朔日に震ありと、世上にて言へ
ど、今日より三日の間は、油断なり難し。是に就いては神々
も御心配あらせらるゝなれど、此辺の人々心得よろしから
ず、神々のお力にも及び難きことあり。然れば、米一升を
二十二杵搗き、一合をとり、糯一合と赤小豆一合と都合三
合をたき、一は山神に、一は家神に、一は、日本国中の神々
一人ものこらずと申して、今夕までに奉るべし。焚くには
女にてもよけれども、奉るには、亭主自ら供へよ、下りは、
亭主一人喰ふべし、斯くせば難を免る。疑へば三月中に難
に遇はむ、此の由を近隣の者に報知すべしと高声にいふに、
恐々ながら二歳の子を抱きて行かむとせしとき、其の子は
置きて疾く行けと言ふに、兄に守らせて出行くとて戸口よ
り顧れば、彼の大男は、忽然として見えず。此のこと、怪
力に似たれど実ごとにて、乞盗の所為とは思はれず。さて
かく神明は守護しますといへども、人は却つて非道にして、
自分の勝手をのみ念とし、他の難儀を顧みず、冨家は人の
零落を付け込みて、益を得んとする故、貧民は益々貧乏と
なりて、天性正直なるも、自然と非為に到る。去る丙寅の
秋、領主御退城の時、その変に乗じて、藩中の家財を掠め、
或は、米銀を奪ひ、此の時に到つては一人だに盗ミをせぬ
はなく、但し盗みといふては聞えよからぬ故、分捕と唱へ
て、互にこれを語り合つて恥とせず、是に味を得て、事あ
れかしと思ふ念より、巳年の凶歉に託つけて、庚ノ午ノ春、
市中一揆を起し恐くも、県庁を穢し、故なきに家を壊ち、
雑穀を掠め、まことに、生呑活剝の振舞ひ歎はしき次第な
り。かくても市中の奢侈は日々盛にて普請の結構、衣類の
美麗は、いふに及ばず、今日の所業、粟嶋の遨遊び、柳が
うつの花見などと、葵や蝶の付きたる所謂分捕重箱に、山
海の佳肴を調し、酒も、池田伊丹の遠来を求めて好悪を評
すること一般の風となり、婦女は化粧をあでやかにして、
手末の業を顧みず、三味線や、舞の稽古を念とし、会飲に
臨み、華房に入つて、活計の助とするは、偏に、浅猿しき
事なりかし。かゝる風なれば、上下、これに競ひ、やゝ人
の上に立つ者も、河原者に等しく、浄瑠璃芝居を心かけて
文章を読まず、学問をせず、少々過言に似たれど、市中数
千人の中に学者といふもの一人なく、及ばず乍らも道に志
す人もなし。をかしきは、宴莚に臨み、能の如き手を振り、
声こゑにて立踊るを、他にては吹出すやうなるを堪えて、
妙手の軽体のと称誉ると、嘲哢せらるゝとは知らず、いよ
〳〵眼をはり、口を曵きて、洒落るさま、席にも堪えかぬ
るばかりなるを、其れを好む心よりは、却つて、是を為ざ
る者を人非人の如くに覩るめり。尤も、浄瑠璃なども、い
さゝか婦女の教誨ともならざるに非ざれど、素より噓八百
の作物にて、小径とも小径なるに、悪くする時は、淫奔の
媒となるに心つかず、無上のことに思ひ光陰を消し、貲財
を費し、生涯、酒囊、飯袋となりてあるは、天より見ると
きは、無きに如かざる人とや言はむ。小作する者は貢米を
納めず。金銭を借りて返さず。商家は二割物や、無用の菓
子翫物を売つて有用の品少く、殊に高利を貪り、一家一人
の利を専として、国中を益することを知らず。此の故に、
品物大方、他国の産を採つて、日用を便するのみにて、金
銭の[自然|おのずか]ら他国に出るを知らず。何ぞ製造を我にして他に
輸出せざる。惣べて、国中の益とならざる事物は、少々便
利を得とも、全く貲財を費し、奢侈を[増長|ま]すはしとなれば、
心得あるべき事なりかし。かくて庶人の心得よからざる時
は、神のみ心として、天災地妖こも〳〵至るものなり。さ
れば万葉集に、さゝなみの国つみ神のうらさびて阿れたる
都みれば悲しもとあるは、近江国の滋賀の都の荒れ廃れた
るを見て詠みたるにて、歌の意は、此所の神の御心の荒備
によりて、かくの如く荒廃したるを見れば歎息せらるゝ事
よと言ふ意にて、浜田の丙寅このかた不仕合の打続くも、
庶人の心得よからずして、神々の御心にかなはず、その思
召に叶はぬ所より、やがて、み心のすさびとなり、御守の
薄らぐのみか、時としては、罰しめ給ふ所にて、天災いた
り、地妖きたるなり。それは、譬へば、親は子を、いかに
もよき人になさむとするに、其の子は、心得あしく、日夜
遊興し身持放埒なるときは、打擲も勘当もすることなるが、
その打擲勘当もとより悪むに非ず、遊興放埒を禁め懲すが
為にて、彼の天災地妖も、やがて是に同じく、神々より世
人を善意善行にせむとの折檻なり。然れば、水火盗難に遇
ふも、非命に死し、非業の怪我をするも全くは、先祖の余
殃と、その身の悪意悪行に依つて神の罪し給ふと覚り、そ
の意、その行を改めむことを思惟すべし。子孫の繁栄、家
名の永続も、皆茲にあることなり。此の度の地震にて難に
あひ、或は非命に死したるも、少からざるが、人こそ知ら
ね、上にいふ如く、皆、神のなさしめ給ふ事を、近く実ご
とを以ていはむ。さるは、安濃郡池田村に、年寄役をつと
めし大谷準造といふ人あり。家も富みてあり。己れも昨年
の春面会したるが、悪き人とは見えざるに、如何なる宿業
にやありけむ、去る丙寅の一揆に家又財を損し、其の後、
又、山崩れして家を損し、怪我人もありしが、此の度の地
震に、家は土中に埋り、人は残らず死亡したる所以を尋ぬ
るに、此の春、嬢を嫁せし歓にとて、大田村某と、鳥井村
川崎屋某と二人、二月五日に行きたるが、其の夜、川崎屋
の夢に、山伏の如き人来りて、川崎屋某を袋に入れて口を
括らんとせしを、辛くして脱出し、あたら命を拾ひしと思
ひし間に、夢は醒め惣身に汗を流してあり。余りに不思議
に思ひて、大田村某を起して、夢の様を語れるに、此の人
も同様の夢を見て二人とも怪異しみ、判断をすれど、更に
解せざれば、銘々の家に変事やあらむ、夜明けなば、帰ら
んと約したり。かくて六日の朝、大谷氏に暇を乞ひけるに、
偶の入来なれば両三日は逗留し給へとあるを、用向の嵩み
たるを名として種々に断るに、限りある用向あらば留め難
し、さらば一杯傾けて帰り給へと、やがて盃を持出したり。
酒の癖として一盃二盃と積るうち、口取、吸物の趣向に未
剋下りとなれりし故、三里の行程暮れぬさきにと、余波を
告げて漸く出でゆく。大谷の子息は、腰送りとて三町ばか
り慕ひ行き、別れて帰りしが、床に上ると等しく例の地震
にて山崩れして一人も残らず亡せたり。今、此の夢を判断
せんに、大谷氏にまれ、その余、誰にまれ、此度の地震に
亡せたる者は、夢こそ見ね、実は彼の神人の袋に入れられ
たるものなるが、大田村某と川崎屋某とは、死に到る程の
咎なき故、神の慈悲より此の夢を見せて脱れ出づべく覚ら
しめ給ひたるものなり。又、これを捕へんとせたる神人を
何物と言はんに、疑なく、出雲の大社に坐して、幽冥事を
知食す大己貴命の御使の物と知られたり。然るは、人を捕
ふるには、物こそあれ、袋にしも入給ふは、大己貴命を世
に大黒神とて、商家などの祭れるを見るに袋を持ちて坐せ
ばなり。但し、直ちに、この大神なるも知るべからず其は、
山伏の如きあるにて考へたる説なれどこゝに記さず。此の
袋を宝を入れ坐す具と思ふ由あれど、此処の夢にて考ふれ
ばそれのみに非ず。悪人をも捕へ入れ坐すと知らるめり。
其れは神代紀纂疏といふ書に、人為悪於顕明之地則帝皇誅
之、人為悪於幽冥之中鬼神罰之、為善獲福亦同之とあるが
則ち此の神の御職掌にかなひ、此の実事によく符合するを
思ふべし。然れば、難に遇ひたる人は更なり、さらぬ類も、
前車の覆るを見て、後車の禁めとする諺に基き、悔悟の心
を振起して、牛思蛇神を改め、真の人とあらまほしき事な
りかし。
さて、又、世に、地震の歌とて、九は病ひ、五七の雨に、
四つ日てり、六つ八つ[地震|なゐ]は風と知るべし。又、東坡居士
の地震の詩とて、春三民長火等々、四五八龍高賤死六九一
金国米来七十二帝兵乱起とある。春三は春三ケ月を言ひ、
十は十月、一は十一月、二は十二月なり。龍は雨を司るに
て苗稼を損し、貴賤の死ぬるを言ひ、国米来は、豊作を言
ふなるべし。こは、其の理なしとも言ひ難けれど、そは、
常少しの地震にこそあれ、越後の地震は凡そ七十五日と聞
くに、此の度なるは、それに勝りて、此の書を草稿せる十
月の頃まで、大小はあれど一日も動かぬ日なく、折として
は、数度ゆりて、水旱風雨の差別もなく、常住震へるに、
一日、外国より地震を買ひに来りて、代金五万円にて貰ひ
たしといふにつき評議に及びしが、此の度の震災の費え、
田畑、道橋、居宅、建物、家財等、ざつと積りても、三十
万円は費えたれば、五万円にては、いかにも配分に不足な
れども、併しながら絹の継ぎには、絹の切れと、五万円に
ても中々得安からぬ金なれば、売方然るべしと一決したる
所に、末座より一人、進み出でて、無用々々と、高声に呼
ばあるあり。一同面を見合はせて控へたる中に、五十ばか
りの、是も、一分別ある男と見ゆるがいふには、汝、末座
の身分として、上座の高議を遮り無用といふは如何なる訳
ぞ、高論あらば聞かまほしとしとやかに言ふに、彼男、座
を占めて各々よく聞き給へ、五万円は大金なれど、仮令、
三十万円にても、常住いる物を売るといふ道理やあるとい
へり。是は、方言に入用を、いると言ひ、ゆることをも訛
りているといふ故に、頓語したるものなるが、右にいふ如
く、常住ゆりもし、又、地震を無用の物と思ふも有るべけ
れど、是は地気を和し、晴風、雨露を調ふる功徳あるもの
にて、大有用のものなるが、其の徳用の広大なる故に、却
て、その[用|とほ]ときを知ること能はず、無くてかなはぬ物とも
思はず、此故に、無用のものを[入用|イル]といふがをかしと作意
せしは、己が考へとは表裏の違なり。(後略)
皇 昭和十七年五月十八日写了