Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0900459
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔柳沢吉保〕○甲斐
本文
[未校訂]藩の軍令・兵法の整備・編集
七月、吉保はこれより先、かねて柳沢藩の軍令、兵法を編
成、編集すべく、甲州流の兵学師範小峯玄入以下の兵学者
や、兵学にも明るかった志水恵左衛門・志村楨幹、それに
荻生徂徠らを招き、反復討論を重ねて、実高二十二万石の
大藩にふさわしい編成を作りあげた。
 十月四日昼に諸国に大地震があった。六日頃から続々と
被害状況の具申が幕府に達した。わけても領国に被害の烈
しかった三河国旧原城主三宅康雄は暇を賜わって帰国せし
められている。もっとも彼の領内には、当時重要な役目と
なっていた「入鉄砲」(江戸へ鉄砲の入ること)の専任の
関所があったからでもあろう。
吉保の領国からの被害状況は、
一城内所々櫓多門・塀瓦並ニ壁、所々の石垣少々損じ

一城下町屋敷潰家 百四拾九軒
一在家潰家 五千六百廿壱軒
一寺社潰 二百拾七ケ所
一死人 九人
一けが人 拾七人
 山崩れ、川堤、道路の破損等は省略したが、家の破損数
が相当なものになっているのに、死人・けが人が幸い少か
ったようだ。ただし再調査したという『破損の覚』による
と、
「在家潰家は千五百九拾九軒、寺社は三十七ケ所、けが
人四十五人、死人拾五人、往還道路欠崩壱万五千百四
拾五間」と、かなり大幅に訂正されている。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 393
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山梨
市区町村 甲府【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.003秒