[未校訂]藩の軍令・兵法の整備・編集
七月、吉保はこれより先、かねて柳沢藩の軍令、兵法を編
成、編集すべく、甲州流の兵学師範小峯玄入以下の兵学者
や、兵学にも明るかった志水恵左衛門・志村楨幹、それに
荻生徂徠らを招き、反復討論を重ねて、実高二十二万石の
大藩にふさわしい編成を作りあげた。
十月四日昼に諸国に大地震があった。六日頃から続々と
被害状況の具申が幕府に達した。わけても領国に被害の烈
しかった三河国旧原城主三宅康雄は暇を賜わって帰国せし
められている。もっとも彼の領内には、当時重要な役目と
なっていた「入鉄砲」(江戸へ鉄砲の入ること)の専任の
関所があったからでもあろう。
吉保の領国からの被害状況は、
一城内所々櫓多門・塀瓦並ニ壁、所々の石垣少々損じ
候
一城下町屋敷潰家 百四拾九軒
一在家潰家 五千六百廿壱軒
一寺社潰 二百拾七ケ所
一死人 九人
一けが人 拾七人
山崩れ、川堤、道路の破損等は省略したが、家の破損数
が相当なものになっているのに、死人・けが人が幸い少か
ったようだ。ただし再調査したという『破損の覚』による
と、
「在家潰家は千五百九拾九軒、寺社は三十七ケ所、けが
人四十五人、死人拾五人、往還道路欠崩壱万五千百四
拾五間」と、かなり大幅に訂正されている。