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項目 内容
ID J0801999
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1725/08/14
和暦 享保十年七月七日
綱文 享保十年七月七日(一七二五・八・一四)〔高遠・諏訪〕信濃・伊勢・奈良・江戸・八王子・浜松
書名 〔高遠城の局地型地震考〕
本文
[未校訂] 少年の頃母が二階二十畳座敷の畳替をしたから、その上
へ敷く渋紙を作るように言われて、倉から反古紙を一抱え
持ってきた。
 陽の永い夏休みの時である。それを貼っていくうちに大
きな図面が出て来た。それが享保一〇年に起きた高遠城の
地震被害調査の図面であった。
 この幾年かのうちに吾家で度々地下落盤型の音響を伴う
瞬間的地震を感じていて、これがどの辺迄影響している
か、高校か中学の先生に頼んで調べてもらおうかと思うて
いたが、前記の図面のあったことを思い出して、高遠城に
直下型の局地地震があったのではないかと調べて見ること
にした。
 幸い六〇年の昔見たその図面が実家の筐底から発見され
て手元にあり、北原通男先生の採録や御指導を得て、一纒
めして見たいと思う。(中略)
㈥ 高島城地震(高遠城地震と同じ時)
一七二五 享保 一〇年の大地震
(高遠古記録にあり)
本丸寅方石垣折廻 一ケ所
卯方櫓多門 台石 一ケ所
卯方櫓台石垣折廻 一ケ所
卯方石垣 一ケ所
辰ノ方石垣 二ケ所
午方石垣 一ケ所
午方石垣折廻 一ケ所
未方石垣折廻 一ケ所
外三十一ケ所 略
或は崩れ或は孕み或は崩れかけ候につき修補のこと
絵図面朱引きの通りその意を得候 以て速かに元の
如く普請あるべく候 恐々謹言
享保十巳 二月十五日
水野和泉守忠之
松平伊賀守忠周
松平左近将監乗包
諏訪安芸守殿(忠虎)
 このとき江戸八丁堀石屋八右衛門を頼んで、見てもらっ
たことが、御用部屋日記に見えている。
(幕府より借入金)
今度領分地震の節城内大破に及び候ところ、当屋敷
近年再度類焼の上当度領内水損かたがた修覆成りが
たきにつき願いの通り金三千両拝借仰せつけられ候
恐々謹言
忠虎宛
(注)
高島城は水辺にあって地盤が悪く 小さな地震にも
被害が多く、数度の修覆が行れている。
幕府は元和偃武以来、反乱を防ぐ手段の一として城
の修理を許可制にして厳重に監督していた。
(修覆の許可)
寛永二一・九・六 許可
本丸、三の丸、三の丸石垣、土手修覆
寛文六・八・三 許可
町通りから虎口へ入る長さ六間横四間の土手
本丸、二の丸、三の丸侍屋敷二十一ケ所の石垣
延宝八・八・一六 許可
東方櫓天守石垣一ケ所
元禄九・六・三〇 許可 石垣
元禄一三・三・二五 許可 〃
宝永四・一一・七 許可 〃
享保三年 許可 〃
続いて前述の享保一〇年の高遠地震の影響と見られる
地震であるが、その被害は高遠城に比べれば微々たる
ものであり、こゝに隣藩の記録を載せた次第である。
㈦ 高遠古記録に掲載された地震
一七〇三 元禄 一六・一一・二二・巳刻
江戸大地震、御城内外御普請
(此の時高遠城も被害を受けている)
(建築便覧にあり)
一七〇七 宝永 四・一〇・四
高遠地震、御城塀、石垣等破損有之 清枚公大
坂御下番 御留守中に付き若殿より御届被仰
上候
(此の時宝永山が出来る)
(建築便覧にあり)
一七二五 享保 一〇・七・七 午中刻
高遠大地震 物頭一人づつ、二の丸御番所詰、
其他役人御城に相詰め候
(此の時の被害状況は詳細記されている)
(高島城記録にあるが其他に記録、影響が無く
局地型であったことが判る。)
一七四八 延享 五・七・二六 未下刻
地震強、御城破損、八月九日右地震につき、御
城絵図牛越太郎右衛門江被仰付
(この図面と被災記録が只今のところ判らない
延享地震の資料がありましたら御教示願度い)
㈦・2 高遠町誌一九頁より
地震 享保一〇年七月七日 略文集より
「ひる九つ七分 大地震ゆる。
御城内家中この他損じ、へい一三八〇倒れり。
同八月二三日までゆり、二の丸、からめて、ます形が
けつぶれ申候。
町より人足七月一一日より出し申候。」
地震は地質学的に見て、構造地震はあり得るが、岩盤が
極めてかたいので、震源地になった時以外はゆれ方は少
ない。土砂くずれは長藤・藤沢・三義は堆積岩のためあ
り得るが河南・高遠地区の領家帯にはまずないと見てよ
いだろう。
(ヽの個所は?であるがそのまま転載)
㈧ 高遠城地震の被害状況
(図面阪下親男氏蔵)略
一七二五 享保 一〇・七・七
信濃国高遠城当七月七日地震の節破損覚
一本丸南方櫓門外東方土居留石垣高さ七尺より二尺五
寸迄横折廻し三間崩申候
一本丸南方櫓門外西方土居留石垣高さ七尺より二尺五
寸迄横折廻し三間崩申候
一本丸南方塀下土居留石垣高五尺五寸横拾間二尺余崩
申候
一本丸南方櫓門内東方土居留石垣高さ七尺横一間一尺
崩申候
一本丸南方櫓門外東方土居留石垣高さ五尺より二尺五
寸迄横五尺崩申候
一本丸南西角櫓下石垣高さ五尺より三尺迄横折廻し五
間四尺八寸崩申候
一笹曲輪櫓門脇東方土居留石垣高四尺より二尺迄横折
廻し五間所々崩申候
一本丸南方櫓門内西方石垣高さ四尺横五尺崩申候
一本丸南方櫓門脇東方雁木石垣巾一間長二間崩申候
一本丸西方塀下土手横二間厚さ一尺崩申候
一本丸南方塀下土居留石垣高さ二尺横九間所々崩申候
一勘助曲輪下石垣高さ三尺五寸より一尺八寸迄横折廻
し七間崩申候
一本丸西北角櫓下石垣高さ三尺横折廻し六間崩申候
一二の丸北方櫓下地形割横五間厚さ三尺土手下る
一二の丸北方塀下土手横六間厚さ四尺崩申候
一二の丸北方塀下土手横七間厚さ三尺崩申候
一二の丸北方塀下土手横二間厚さ一尺崩申候
一三の丸櫓門脇方雁木石垣幅八尺八寸長一丈一尺不残
崩申候
一三の丸舛形の内北方土居留石垣高さ六尺五寸より一
尺七寸迄横折廻し九間三尺五寸不残崩申候
一三の丸東方堀端地形割横十一間厚さ一尺下手下る
一三の丸舛方の内南方土居留石垣高さ六尺五寸より三
尺迄横折廻し七間四尺余不残崩申候
一三の丸櫓門脇南方土居留石垣高さ三尺横九尺不残崩
申候
一本丸東方塀下土居留石垣高さ五尺五寸横三間半崩申

一本丸舛方の内北方土居留石垣一丈七寸より二尺迄横
折廻し七間三尺不残崩申候
一本丸舛形の内南方土居留石垣高さ一丈七寸より二尺
五寸迄横折廻し八間四尺不残崩申候
一本丸櫓門脇南方雁木石垣幅八尺長さ三間損申候
一本丸櫓門脇南方土居留石垣高さ七尺より三尺五寸迄
横折廻し三間一尺崩申候
一本丸櫓門脇北方土居留石垣高さ六尺横折廻し二間不
残崩申候
一本丸東方塀下土居留石垣高さ二尺五寸横折廻し八間
三尺不残崩申候
一二の丸南方塀下土手横五間厚さ四尺崩申候
一本丸南方堀端遍地形割横四間厚さ一尺土手下る
一本丸南方塀下土居留石垣高さ二尺五寸横七間二尺雁
木共に崩申候
一本丸東南角櫓下(巽櫓)芝土留高二尺五寸横二間三
尺崩申候
一本丸東南角櫓下芝土居高さ二尺五寸横二間一尺崩申

一馬場先門外南方土居留石垣高さ二尺横一間崩申候
一馬場先門内北方土居留石垣高さ三尺横三間崩申候
一法道院曲輪塀下土手南西角より北へ六間厚さ三尺崩
申候
一南曲輪舛形の内北方土居留石垣高さ六尺五寸より二
尺迄横折廻し三間二尺崩申候
一南曲輪舛形の内南方土居留石垣高さ六尺五寸横四尺
崩申候
一南曲輪舛門(形カ)脇南方土居留石垣高さ五尺より二尺迄横
二間崩申候
一南曲輪櫓門脇北方土居留石垣高さ一丈より二間迄横
折廻し六間孕申候
一追手冠木門脇北方塀下土居留石垣高さ五尺横八間崩
申候
一追手舛形内北方石垣高さ一丈一尺横九尺崩申候
一追手櫓門脇北方土居留石垣高さ七尺横三間崩申候
一追手櫓門脇南方雁木石垣幅二間長さ二間崩申候
一二の丸櫓門脇西方雁木石垣幅八尺長二間五尺七寸崩
申候
一二の丸櫓門内西方石垣高さ一丈五寸横折廻し七間二
尺崩申候
一二の丸冠木門西方塀下石垣高さ三尺横五間崩申候
一二の丸冠木門東方塀下石垣高さ二尺五寸横二間三尺
崩申候
一二の丸舛形内東方石垣高さ一丈五寸横折廻し拾間一
尺五寸崩申候
一二の丸北方塀下土手横拾二間厚さ三尺崩申候
一本丸東北角塀下土手横折廻し七間厚さ三尺崩申候
一本丸東方堀端遍地形割拾七間厚さ二尺土手下る
◎以上の記録を再記して筆者はこの激しい地震の惨状
に戦慄している。此の災害は近世の地震災害記録に
は殆んど見られない高遠城壊滅の大災害であったこ
とを、町民の皆様に銘記して戴きたいと思う。今年
から丁度二五〇年前の大地震である。
又此の災害調も極めて緬密であって技術者の一人と
して敬服している。
㈨享保の高遠城地震は局地的直下型の地震と考える。
前項の調査記録を集約すると、被災ケ所は城に直接関
係する丈で、五五ケ所ある。
石垣崩壊ケ所 四一ケ所 崩壊見付面積 四九七・八
平方米 崩壊した石の容積は約五〇〇
立方米
石垣が孕んだ部分 三九・六平方米
土手崩壊ケ所 一四ケ所 見付面積 一二一・三平方
米 土手の下った所が一ケ所
崩壊した土の容積は約一八〇立方米
高遠城の面積(祖父池田貞人の手記による)
城郭 二町二反八畝四歩
同 三町四反三畝八歩
本丸南曲輪九反九畝一一歩
 この面積は五六、四九五平方米であり、この狭隘な土
地に前項のような大災害があったことは、近世地震の他
の記録にはない、強烈なものであって、現代のように測
定器機もない時代であるから、恐らく震度は七・(マゝ)以上の
激震の部に入るものと思われる。
 高遠石屋で有名な石工が念入りに積んだ堅牢な石垣の
被害が僅かに高さ二尺の石垣迄被害を受けていること
は、恐るべき地震であったと思う。
 ♠に不思議に感じるのは、この調査に建物の災害が無
いことである。水平動の地震では震度六・○位で木造家
屋は倒れる場合がある。
 之が上下動の場合は建物の重量が軽い木造では倒れる
ことは少い、現在の地震に対する構造計算は総定量の二
〇%が重心に水平に働く力を基準にしているが、重量の
重い建物に上下動のきた場合、近代のコンクリート建築
は自重の加速度を受けて一たまりもなく壊滅する。
 従ってこの地震の性質は建物の被害が少いところを考
えると局部的直下型の上下動の地震であると考えられ
る。
 北原通男先生の資料によると「間もなく強くなり」と
記されている。従って地震の初動から数秒間に渉る長い
時間の地震であったと思われる。
 此の地震による被害が町方や在方に記録がない。北原
先生御採録の記録の中にも関連する町方差配のこと、藩
役人の当時の動静は判るが、被災の程度が判らない。
 若し記録がなくても僅か二五〇年前の出来事であり、
町方在方に被害があったならば、民間伝承として一言位
は言い伝えられていると思うが、筆者寡聞にして此の辺
の探研が出来ないが、近隣地方の被災が記録されていな
いからと言うて高遠城地震を局地型と決めてよいかどう
か、後世史家の御検討を待つことにする。
 この時高島城が幕府から三千両借りている。高遠城は
この復旧に幕府から借入したか自藩で支弁したか、こん
な問題も関連する興味あることである。
㈩地震史料(北原通男先生採録)
東京 青山勝郎氏蔵
享保十年七月七日
一今日御礼後午之下刻(午後一時)地震、間も無く強
く相成 御家中残らず御機嫌伺に罷り出候 御前は
早々広庭に御出遊され 野陣組立 夜中御座遊され

年寄中拙者(青山大膳)共相談 頭より無足の面々
迄広庭へ出 夜中警向(固)相詰られ候 翌八日六ツ半
(午前七時)頃御城へ入られ候
御家中残らず御機嫌伺申され候
河野浅右衛門同日夜に入り江戸御使仰せ付られ道中
三日積に帰る勘定にて金子七両相渡し候
一御貸人足 足軽 一人 中間両人
駕籠 一挺 軽尻 一疋
一夜中代る代る所々堅め相勤め候
一年寄中拙者共 押通し相勤め候
御酒御菓子下され候 年寄中拙者共居所箱番所仰付
られ候
一広庭に罷在候面々御酒下され候
一御城内石垣 堀 共外御家中屋敷大破
一翌八日 三の丸内 広小路 新町(荒町) 久保川
板町 御見分遊され御出候
御機嫌良く御座候
一地震御届 松平伊賀守様七月十日夕方市江三郎右衛
門相勤候御書付なされ御見せ候
一七月十八日 (余震の記録)
今年(ママ)ノ中刻地震致し候 去七日の地震より少々軽候
これによって殿様御広庭江御出遊され終夜御座成さ
れ候 御家中も残らず罷在り候
翌十九日六ツ半時 御馬に召され夫より御城に入遊
され候
(十一)地震史料(北原通男先生採録)
高遠名主池上氏記録(池上とも子氏蔵)
廻状を以って御意得候
一地震今以って鎮らず候に付 火之元の儀第一に思召
され候間 弥銘々念を入る可く候 此段支配の下々
迄御申付候様にと御年寄中仰せられ候
一今度の大変に付 例年御年寄より浄土寺(満光寺)
御仏前に献ぜられ候燈籠之儀今年相止られ候 これ
によって指上げ来り候御家中の儀も今年は燈籠指上
げられず候儀は苦しからず思召候 夫共に勝手次第
に相成るべく候 今以って静かならざる候に付 盆
中いとなみの儀諸事に付事品軽く取計い 燈籠香
之火迄も共に印し迄に致し減候ようにとの儀に御座
候 此節第一火之元御心之思召候趣候間諸事心付ら
るべく候
一盆中御仏参之儀 五三人程花参詣候ばかりに御申合
壱町明き申さず様に相成べく候 自分寺参り候儀も
右に準ずべく候 右之趣支配組々下々迄も仰付けら
るべく候
此段申通候様に御年寄中仰せられ候 以上
享保十乙巳年七月十二日
倉橋治左衛門
安彦平左衛門
各 様
右之通御書付 御目付様方より御家中に御廻し遊れ
候由 御奉行様より拙者共方(町役人)へ御渡此趣
に準じ町中へ申渡相成心得候様に仰付候 則町中へ
急度申渡候
(中略)
(十三)高遠城周辺の地質について
(上伊那誌添付図面による)
一上伊那地方の中央構造線は諏訪にてホツサマグナと
分岐して、東経一三八度二―三分を殆んど正南北に
縦断している。
高遠城の直下は中央構造線より西へ、僅か一三〇〇
米離れているに過ない。
城の直下は勝間石英閃緑岩が四〇〇米位の幅で北へ
延びて、その尖端は鉛筆の先のように細り、弥勒で
止っている。
此の延びを中断して研修館附近から右へ幅約二〇〇
米長さ約七〇〇米のナイフの先の様な尖った型の領
家変成岩縞状片麻岩帯が、鋭く突ささっている、北
村辺りまで延びていると考えられる。之が高遠城の
真上である 領家変成岩は新山峠の東から幅六〇〇
米位で北へ向い、西高遠から黒沢迄延びている。
山の神から大北へ向うて月蔵山の中腹迄は非持石英
閃緑岩が幅約五〇〇米で北へ走り荒町附近へ達して
いる。
月蔵山の東側は鹿塩ミローナイトが幅約四〇〇米位
で南北に走り中村附近で止っている。
その東側は中央構造線で大明神、中村、四日市場、
荒町、松倉へ抜けその東は三波川、ミカブ帯が五〇
〇〇米の幅で南北へ延びている。
西高遠を幅約一〇〇〇米で南北に走る。縞状片麻岩
帯の西側は、高遠花崗岩で三峰川沿岸から長岡の北
辺迄鉢伏山から三日町、野口附近を結ぶ、オットセ
イのような型で頭を北に、尾ポは細く三峰川を渡っ
て幅五〇〇米位で東南に延び上新山へ達している。
一この様な狭隘な所に複雑な岩層が入り組んでいる所
は稀であって、数多い断層のズレや陥没等が起る可
能性は多分にあって、高遠城地震が極めて小範囲の
局地的直下型地震であったことが想像出来る。
前項の種々の記録から、震央を探って見ると、記録
的にも高遠城へ落付いて、ここを遠ざかるにつれて
記録も薄れているのが明に判る。
禍は忘れた頃に来る、二五〇年前に起った私共足元
の高遠城大地震を、記して町民の皆様と考えて見た
い。
一北原通男先生の地震史料転載の御許しを得て、記録
に肉付けの出来たことは望外の倖であり、又七月十
八日に余震のあったことが判明して、恐る可き地震
の解明が詳になって幸でした。
本項を閉るに当り北原通男先生の御厚志を多謝申上
げます。 以上
(東高遠三番)
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 217
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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