[未校訂]元禄十六年の大津浪 百姓を苦しめたのは、飢饉ばかりで
はなかった。津波や火災も人命と財産を奪うことによっ
て、海岸ぞいの村を大いに痛みつけたのである。記録に残
る最大の津波は、元禄十六年十一月二十二日の津波で、荻
野正則はその状況を、つぎのように、くわしく書き残して
いる。
元禄拾六年未十一月二十二日子丑ノ刻(午前三時)、辰巳(南東)ノ方より地
震そろ〳〵致(到)来、段々きひしく、其節世間人々寝しつま
り、正躰なき折節の事にて、はやく目さめ候ものも起た
たんとせしかとも、地震漸々につよく、たをれふし〳〵
うろたへ、其内西裏口えかけ出、藪の内又は山えかけの
ほり居候もの数百人、いまた寝伏居候者は浪に引とられ
沖え出候。其節浜え出合候者沖の方を見候へは、半里程
沖にまつ黒なる雲のやうに相見へ、水きわに白布を帯と
せしやう相見、山のことく押参候ゆへ、是は津浪よとよ
はわり候と、ひとしく陸地へうち上け、浜通三百余軒沖
中へ引取申候に付、右ねたし居たるものは、家共に浪に
とられ、其外起居候ものも被引取、沖中にてなきさけ
ふ声、さなから地獄にて罪人呵責に逢ふたり節もかくや
と、人々申あへり。二の浪にて陸へうち上候家共、柱け
た、引物はりねた等、かや之たしかけ、一面に山のこと
くうち上、其内にて未十死一生のもの有之、なきさけふ
声あわれとも、いつれにたとへかし。其内夜もほのかと
明候へは、入谷ゟ出合いまた性根も有之者は、其縁に
付、せおいになひなといたし、つれ参養生いたし、又死
人は右かや・材木の内をさかし出、寺々へ荷ひかつき申
事、非人のはてもかくやと計に候。漸こも表を求、それ
に包、寺々にても数百人候にて候へは、みな堀埋〳〵仕
候。遠くゆゝ敷暮たる者も、右のことく浜辺に家一軒も
不残候へは、村中津浪の者其縁により、皆々入谷に宿
借候て、後にはまへ移申候。壱ヶ月程之間、浜通村之
者、通路無之候。
この記事によると、浜通りは一軒も残さず押流されたと
あり、その被害の大きさがうかがわれる。正則の別の記録
によると、松原・湯川・新井では、波が迫ったばかりであ
るが、これにひきかえ、川奈・和田では、家屋が流され、
三百余人の人命が奪われたとしるされている。