[未校訂](佐々木清兵衛家文書)
申九月十八日の夜明け大地震中々筆紙に難書候 潰家の次
第左の通り 但し死人は無之候
久蔵 源蔵 豊後 まげし 三十郎 兵左衛門 惣助 清
兵衛 清三郎 惣八 玄番 吉十郎 三右衛門 市右衛門
与惣右衛門 七左衛門 与助 三郎平 右衛門三郎 三蔵
角内 権助 太兵 与左衛門 惣五郎 孫左衛門 喜右衛
門 金助 潰家計廿八軒馬九疋
蔵潰れ
与惣右衛門 清兵衛 源蔵 三郎平 角内
小屋潰れ
五郎兵衛 彦作 惣八 吉蔵 善右衛門 観音堂半つぶ
れ 澗の内四尺埋み 石垣三尺下り山々無制限いたみ申候
同九月二十五日、御郡奉行野崎八右衛門様御馬にて御廻り
塩越御泊り夫より西小出郷西目郷之之御廻りあり。
十月朔日新穀五俵つつ壱軒に被下置候事御年貢上納高の内
差引仕候もあり。
大工木引一日細工料米二升つつ文銭は三十八文つつ被仰付
候 檜一丈程五十五文迄仕候 杉板一間六十文迄 酉の春
は段々下直に相成候事
地震痛澗形御普請(正保二年の条)、家々普請大難儀ニ村中相くらし凌ぎ兼
候人々庄内に行く