[未校訂]慶長元年
閏七月十二日夜子ノ刻五幾(マヽ)内大震地本のまま神社仏閣大廈巨宅悉ク
敗壊シ伏見ノ殿舎顚倒シ土裂水湧出ス上﨟女房七十三人奴
婢五百余人圧死秀吉漸ク寝殿ノ庭ニ出政所松ノ丸ノ方トト
モニ死ヲ遁レ玉フ(中略)神君ノ櫓門顚倒シテ加々爪隼人
政尚圧死ス殿舎最モ大破セシム愛宕山坊舎悉ク顚倒ス
同廿日秀吉大地震ヲ恐レ其難薄カラン事ヲ欲シ本丸ヲ木幡
山ニ移シ築シメ今日事始アリ
(武徳編年集成)
閏七月十二日大地震ニ而伏見之御城ゆり崩し候節案するに引
用する岡田
宇右衛門覚書旧事考異浅野御家譜及ひ林元拙差上書付逸史朝鮮太平記等に本
文地震を七月十一日のことゝするハ誤りなり武徳編年集成松栄記事家忠日記
烈祖成績秀吉譜朝鮮征伐記等皆閏七月十二日に作る又上田主水安定所蔵閏七
月十三日秀忠公より主水重安へ賜ふところの真跡の御書に如仰不慮之地しん
不及是然候先程こゝもとへ御上之由不存知候て不申入云々
とありて此月地震せし明証なり固く今本文の如く記しぬ
清光公能登国より御帰参之儀案するに此時清光公讒言によりて能登
国鶴崎といふところに御蟄居ありしな
り詳なることハ本伝にあり被仰出案するに浅野弾正少弼長政佳言善行之聞書
浅野考譜にあり御行事世話にハ此年伏見大地震ノ前長政例ノ閉門ニテ被居シ
処ニ大地震故其儘登城候ヘハ秀吉モ政所殿モ(此時政所殿ハ大坂ニ在トモ
云)出エラレス徘徊シヲワシマスヲ長政寝間ニ入夫婦ヲ両ノ肩ニ懸ケ庭エ被
出シ跡ニテ座敷破損セシト也秀吉悦大方ナラス色々褒美在テ閉門ノ沙汰モナ
ク如常出仕在シト也云々とありて本文と異なり今明証なけれハ何連か是なる
ことをしらすといへとも姑く岡田宇右衛門覚書旧事考異等に従ふさて前条の
二書に長政例ノ閉門ニテ云々とあり其儀今考るところなしといへとも此時清
光公讒訴によりて能登へ御蟄居ありし御事なれハ公にも其事によりて閉門し
たまひし御事ともありしにや次に記す八月十四日伊達正宗君より公へ御絶交
の書翰中に貴殿御事上様不被掛御詞ヲ云々貴殿左京殿目出度追而御出頭云々
なとのことも見ゆれハ定て公にも秀吉公の御前御不首尾の御ことハありしこ
とゝ思はるれと何事によりてかくありしといふ明証を得されハ附して以て考
を待
引用書
岡田宇右衛門覚書曰此年七月十二日に(案するに七月ハ閏
七月の誤なり詳なることハ前に弁す)大地震ニ而伏見御城
ゆりくつし申し其時長政公無二之忠節被遊候於是秀吉公の
御意にハ我幾千之近臣を持といへともかんしんの時我を見
□く者は弾正ニまさる者なく候此報謝にハ左京大夫ニ帰参
申付候急に呼に遣候様ニと被仰付旧事考異浅野御家譜にも