[未校訂]川与志雄「近江第三号」(一九七三)近江考古学研究会
一、「改訂近江坂田郡志」第一巻(三六九、三七〇頁)には
「神照村大字祗園(長浜市祗園町)の西に古へ西浜村と称
せし村ありしが、曾て地震により陥没して村の大半を失
ひ、その後、今の大字祗園及び長浜町に移住する者あ
り、是等の者は何れも西浜を姓となせり。此西浜村の陥
没は寛正頃の地震なりと伝ふ」なお同書第三巻(四四八
頁)には寛正四(一四六三)年の地震となしており、以
上の論拠を口碑にありと記している。
また「大字祗園も地震の為に中古、今日の処に移りたり、
其の産土神の祗園社は今の鎮座地より四町の西、小字天
王屋敷と称する処にあり(中略)其の北を宮北と言ひ、
西を宮西と言ひ宮西の西南を古屋と言ふ。其れより三町
西の湖中に井戸形の現存するもの多し、是れ前記の西浜
村の湖中に陥没せし所なりと言ふ」とある。
三、「坂田郡志」第三巻(四四九頁)には「古へ筑摩の西
北に当り、尚江と称する大村ありしが中古大地震の時、
其の地陥没して湖中に沈めりと伝へ、風浪なき日、湖底
を瞰視すれば井戸の遺阯等を見る事を得べしといへり」
とあり(中略)
磯崎文五郎氏によれば、朝妻と筑摩の間の湖辺に「直江
(尚江か)千軒」が在存し、その水没は、山内一豊の幼
女(興称君)が圧死した地震、天正十三(一五八五)年
十一月二十九日夜の地震によると伝えられている。ま
た、氏により現在の汀線近くの水中に井戸跡の存在が確
認されている。
(注、信憑性に欠けるが追加掲載する)