[未校訂]一 越中木船の城ハ石動より一里往還より東の方也、天正
の頃城主石黒左近秀吉公ニ属すといへとも返逆の聞ある
により、京都江被召江州長浜の駅にて郎等廿四人自害し
て滅亡に及ふ催(程)ニ一子死を遁レて金沢ニ来り、湯原と姓
を改む、其後佐々平左衛門居城後前田右近秀継四万石を
領シ在城然るに城の麓に今五社村(木舟村の誤り)と云所ニ木船明神の社
あり、右近秀継飼犬と木船の神躰をつなき合水中ニ入レて
戯れて曰、神奇特あらハ水中ゟあかるへし、犬神に勝ハ死
を遁るへしと云処、犬ハ遊(浮)きあかり神の尊像ハ水中に沈
む、其夜天正十三年十一月廿九日大地震山岳を崩し地裂
テ木船の城を大地にふり込、城主右近将監殿御父子(夫婦の誤り)等一
時に卒去号永徳寺殿ト今石動に寺有城跡一町計、高く田畑の中ニ残れり
其廻りの田むかしの城(堀)跡也とて今ニ深し、元来木船の城
地沢にてあはら地なりし故とそ木船村より三町計南の方
也、御子息前田又次郎利秀と号し今石動の城主、文禄元年
朝鮮の役進発ありしか半途ニ而煩出、帰城あって卒去の
よし、秀継の卒去は神木をきられし故其とかめと云伝ふ