[未校訂](前略)時は貞観年中を去ること略弐百年寛治六年八月三
日であつた風雨数日止まず逆浪天に滔り来り轟然陸地を嚙
んだ幾多の人畜は見るまに海底の藻屑と消え海府浦親不知
の海岸は崩れて今の奇状を呈したのである又寺泊以北角田
に至るまでの間古潟砂山飛山等みな此災害のため海となつ
た越後の地形に変動を来し現形となつたのである又古津、
金津、大面、長岡、与板、大河津の附近はみな内海の沿岸
であつて海水深く湾入し居つたのであるが此大洪水大波浪
の建設作用により土砂沈澱堆積して内海を浅からしめ湾口
は塞がれ斗出せる砂地は崩壊し越後の海岸線は一直線とな
つたのである為めに浅き部分は陸地に変じ深き部分には水
を湛へ無数の湖沼が現出したのである思ふに其遠因とする
ところは幾千年来信濃川、阿賀川其他諸川の流水作用によ
り内海を浅からしめた結果である
和田氏越佐歴史、日本災異志、大日本史、紫雲寺新田由来記、小川、小林両
氏帝国地誌、横山博士地質学講義、同陸水学海洋学参照(中略)
紫雲寺新田由来記の中に(中略)海蔵寺住職快秀附記して
曰く
七十三代堀川院寛治六年戊辰年大津波大地震蒲原岩船陸地
となる