[未校訂]爰に安政五戊午二月二十五日朝五つ時より北風吹き出し寒さ
を覺へたり。然し日も出でゝ晴れたる景色なり。暮に至り風
止み何の異變もなく、夜も晴天にて星もきら〳〵として常に
異ならず。我れ此夜用事あり、岸助之丞宅へ罷越し、夜九つ
時分に歸宿して他念なく打臥すところ一睡の内に忽ちに戸障
子めり〳〵と鳴り渡り、下もゆら〳〵搖き出せし故、手早く
起き出て家内を呼ひ起しつゝ、障子雨戸を引明け早く出よと
云ひつゝ飛出し、假令家は潰れても障らぬ程の處を見定め、
地上に跪つき居る處へ家内のものも二男を携へ遁出て、是れ
も同しく跪つきたり。尤も立つてゐては沈醉の心地して倒る
ゝ計りなれはなり。母君と條太郎は如何にせしと思へとも、
部屋も隔たり居ること故如何とも爲し難けれは、是非なく暫
く見合せ居たるに、外に出てゝより次第に強く、建物も烈く
振り動かされ、世間の鳴り渡る音は口にも述べ難く筆にも記
し難し。扨四五間向ふの方に母君の我等を呼るゝ聲聞ゆる
故、初めて無事なることを知り、一家族一處に集り一先づ安堵
せしが、扨家來僕婢は如何に呼ひ尋ぬれとも一向に答へず。
稍ありて追々に集り來り、皆々異變なく遁出たるを喜ひた
り。夫れより部屋を見るに燈火は不思議に滅えす。怖ろしな
から内へ入り火燵の火をもよく消し、着物を改めて又早々に
庭へ走り出て、物干の雨戸を取出し、其上に菰を敷き暫く腰
をかけて休息す。夫れより追々屋敷の周りを見廻り、堀拔を
見れは水一時に沸き出し、取水の樋の枕もゆるぎ川の鳴る如
き音を立つゝ、又勝手より取水の樋の中程より水吹出して邊
は一面の水溜なり。又土藏ぱ龜裂生じ、戸前の建物は腕木中
二本は折れしも、兩端は折れさるために潰れさりき。土戸脇
大きに壁損じ、東南の上の角も少々壁落ちたり。扨露地の石
燈などは皆々東北より倒れ屋根の落ちたるもの多く、別して
西の書齋東の部屋に多し。是れぱ風返しなき故ならん。臺所
出口の上の壁も澤山に落ち、又式臺兩袖の白壁には帶の如き
裂目を、外まはりの壁は皆々龜裂入れり。
内の樣はまた氣味惡しき故調べもやらす、元の處へ來りて休
む。是れまてにも二三度搖らきしかど、格別の事はあらざり
き。時に追々親類より見舞の使來るにより、右立退きの場所
へ高提灯を建てゝ屛風を引廻し、夜着蒲團等を取り來り、假
りに火鉢炬燵を拵へ、雨蓋には長柄傘を建て、各々手拭など
冠て居たり。條鷹の二子は目覺して肝を冷やし居る計りにて
泣きもせず只た仰天の體也。時に火事裝束を急に取出して身
に着け、菅笠を蒙り手灯燈を携へ、折々屋敷内を廻る。此と
き鐘打を數へ見れは八ツなり。條鷹は皆々寐入る。隣家も皆
皆庭内に灯燈點し口々に語り合ふ樣子なり。扨て仕末もあら
あら調ひし故、見舞旁々急ぎ近親中を廻り、先づ初めに津田
五百記方へ見舞ひしに、家内一統異儀なし。土藏の壁は餘程
落ちたり。夫より蟹江監物方へ相尋ぬるに、是も家族異儀
なく、土藏は右に同しく大破損なり。夫より丸の内通りへ懸
るところ、近藤右近の門前より西の方二丁許りの所に、大地
大割れ高低に相成り、箱段の樣になれり。尚ほ其邊りの割れ
目は數ケ所なり。夫より東の升形へ出て佐脇木工方へ立寄る
に、是も家族は無異損處も多からす。夫より總曲輪通り神田
橫町へ入り、二番町一番町、千石町へ通り拔け、武庫川數馬
方へ立寄りしに、是も家族無異儀由。夫より瀧川主税方へ罷
越す。是も皆々無異儀由。是れにて先づ〳〵安堵いたし、庭
先にて煙草一ぷく呑み休息す。時に飯有之由に付、一椀賜は
り夫より直ちに歸宅したり。此往行中にも度々搖ぶりたる由
なれども心付かす歩きしなり。次第に東方ほの白くなるに及
びて、心も次第に落付けれども未だ地震は止ます。凡そ夜明
までに二十五六度もありたる由。未明に入江藤馬、若林貫
治、森忠藏などの出入者追々來り、次第に心丈夫に相成りた
りき。さて夜明けて庭の假山へ登り見れば、後路の方の石垣
は大崩れになり、山の上土は割れて落ちかゝり、塀計りの中
に殘り居るやうに見ゆ。追々内へも入り座敷書院等を調べ見
るに、壁は少々損したれとも落もせす、差したる事なき故大
に悦びたり。扨て下婢へ申付け急に飯を炊かせ、皆々飢ゑを
凌き氣味惡なから、火燵もほそ〳〵火を起して休息す。
今日も晴天なから、天の色うるみ日の色赤く、風もなく雲も
なく、朦朧たる氣色にて暖からす寒からす。兎角人氣治り兼
ね、多くは庭へ出て日を送る積りなり。時に御用番より觸れ
狀にて、近日登城にて君上の御機嫌を伺ふべき旨に付、取敢
へす罷出つべき用意の處へ津田八百八罷り越され、一つ二つ
地震の樣子を話し合ひ、同道にて急き登城をなしたり。○中略
さて登城の道すがら御郭内村兵庫介門前に大がけあり、夫よ
り櫓御門下土橋大損じ、左右より開き、開口の明き口の幅六
七尺の處もあり。深さも右同樣。其餘三四尺計りより、一二
尺の口はずん〳〵に裂けたり。尤も中に窪み割れ、穴の下底
に泥水溜り、見るも恐ろしく思ひたり。櫓御門の西の方涯よ
り南へ曲りたる塀及ひ出狹間下の石垣とも皆々崩れ、御堀の
内に沈み居れり。塀は角より櫓まて東西のわたりの間は落ち
す、角の邊りにてちぎれたり。御門内下番所後ちの十居角よ
り、東の方へかけ七八間計り下へ潰れ込み、夫杉二本御堀の
内へ打倒れ、二本は西の方へ半分程倒れかゝり、土居なき故
富田下總屋敷の橫手より見れは、櫓御門前裏の方能く見ゆ。
此の土居は御堀の底へ突出したるならんか。夫れより鐵御門
へ渡る土橋も同しく左右より開きて大口を明け、直中四五尺
計り通路あり。兩方の柵は眞中の方皆々破損したり。鐵御門
外南の方角石垣大崩れになり、往行し難く、人夫二人計りに
て片付け居たり。其中を通り過ぎ、是れより御館の内には世
間並の損所にて、格別のこともなかりき。○脱文ありより開きて
南の方へ三尺計り倒れ、御門番所は北の方へ倒れ、御門際の
大杉の木二本、南の方御堀へ倒れかけ居るを眺め、夫れより
歸宅したり。宅の屋根石のずりたるを直させ、今日は又晝後
鬱陶しき氣色にて雨天と見得たるにより、屋根の修覆を仕舞
ひたる上、立退き場所を工夫し、屋敷内東南の畠の眞中に涼
臺二曲並へ、九尺の雨戸四枚を兩方より立て、上の方を繩に
て閉ぢ、三角の家建をしつらへ、上より菰澤山かけ、一方の
口を戸板にて塞き、一方を入口とす。又其脇に有合せの駕籠
二挺を並へ、敷ものを敷き、又其邊に雨戸四五枚を並へ、總
廻リへ幕打廻らし、先づ是にて用意全く相濟みたるは早くも
薄暮なり。今日の晝のうちにも繁々しく地震ありしも、六ツ
過よりは雨氣となりたれば、少々心も落つきたり。今晩部屋
〳〵雨戸も引かせ、障子一重となし、火燵ぱ薄暮に全く火を
消し、自分は伊賀袴著其まゝにて夜半に少々睡氣を催ふした
れども、又少々の地震あるにより、目を覺まし熟眠せす。八
ツ時前に少々強き地震ありしか遁出すに及はす。かゝる有樣
にて計らす夜を明かしたり。翌くる廿七日は雨天にて風立ち
もなく、五ツ頃一僕を召つれ、我菩提寺なる立像寺へ罷越さ
んと思ひつゝ門を出でたり。寺中墓所の石碑は皆々打倒れ、
其内に南北向の石碑は大小かけて三四本倒れす殘れるのみ。
鼬川は水來らす。東市町洪水の手當のためと聞くに付、出町
の端へ出でゝ逐一見れば、水色甚だ濁り、赤黃の色にて常よ
り二尺計りも滿ちたる由、其邊の人々申居たり。左すれは山
拔けといふこともなかりしならんと思ひ、夫れより大橋通り
新町の裏へ出て、遙かに神通川の水色を望めは、杳茫たる滿
水の色は同じく黃赤の色なり。但し神通川ぱ昨二十六日夕七
ツ時まで水來らす。有澤津渡の邊からわたりを爲し、七ツ過
より水次第に元の如くになりたりと。夫れより新川原町潰家
死人の箇所を見分を遂けたり。此死人の次第は元來家ぱ九尺
口假屋と見得わら屋なり。家内夫婦と子供四人末の子は三歳
なる由。亭主熟睡草臥れ眠り、妻は四人の子供を外へ出し、
亭主を呼起すため内へ入りし所へ隣家の土藏の壁落來り一思
ひに潰し、夫婦共に一瞬の内に相果てたり。肌につけたる三
歳の子は難なく掘出したる由。誠に憐れなる事なり。
舟橋へ出て一覽するに、水は橋一杯にて增減なき體なり。總
曲輪西升形外山本某門前は大割れ所々に生じ、學校土居御藏
の際七八間許りも潰れ、二間程御堀の中へつき出したる體な
り。大杉の樹は頭を南方へ二三間も倒れかゝりたり。村兵庫
介屋敷橫手に大割れ口あり、泥水吹出し其色赤し。又近藤右
近門前西の方に吹出したる泥水ぱ黑色なり。是等を一見の上
歸宿したり。暮頃に朋友藤田太郎兵衞來り語り、互ひに平安
を喜びたり。時に二十五日には太郎兵衞千秋元五郎兩人にて
泊より罷越したる由。泊にて此地震に逢へりといふ。談々談
合する處富山よりは輕き樣に見えたりと。尤も歸路入膳、三
日市、魚津、滑川等富山近くになり、次第次面の模樣且家の
損じ方漸々に強かりし。さすれは泊より下は泊よりも弱かり
しことゝ思はる。東都なとは左のみ強くも有まじと。當時父
上東都に在りし故此話を聞き一先づ安堵をなしたり。餌差屋
辻屋某といふ者の妻、地震後癪氣にて死したりとの話あり。
又新地玉屋某といふ者は、家來牧田豊吉の類家の由にて、二
十五日の夜用事ありて玉屋へ赴き夜に入り歸らんとする所亭
主の申すには怪しき夜にて大風地震の内相違なく有之故、今
夜一夜泊り呉れられ、明朝未明に屋敷へ歸られ然るべき旨申
す故、未だ年若き豊吉故異念なく承諾し泊りし處、此地震な
りき。直ぐと立歸りて此話を爲したり。亭主は何等の事にて
か知りたるやらん、晴雨考と云ふ書にも二十五日二十六日大
地震と有りし由故、夫れにても見たるならんか。氣運を以て
知りたるならは賞すべきことなり。又河原六右衞門と云ふは
越中立山の湯元にて大百姓なり。是は一ツ家立よて本村を離
れ在住の由。二十五日晝の間に屋根の上よ雀幾百と云事無之
集り、大に噪き鳴きたる由。尤常は鳥も來らぬ處の由。家族
皆々怪しく奇異の思ひをなしたる由傳承す。偶然の事かは知
らねと變なる話故しるす。