[未校訂]一、爰に今年安政二卯十月二日亥の上刻ばかりにいかなる
[狂津|まかつ]日の[惡|まか]ことそや。江戸のちんじ昔より國々の大地震にく
らぶれは山も崩れず川も溢れすさのみの事にはあらねども、諸
侯太夫搢紳の殿舍は善盡し美をつくし、商家の軒八方十里あ
まりに建つらね錐を立べき畾地もなく、隈なき秋の月影さへ
片かははかり照すと聞長安の都の賑はひも斯はあらじとおも
ほへて古今無双の繁昌ゆへ人數の多きことはかりしられず。
繁華の地のならひよて家々の造作は花やかを先とし火災の防
き專一なれば、土藏瓦屋のみ多し、ア、入船の順風は出船の
逆風にて出火の時は利有といへとも地震には聊益なく、たま
たま板[茨|ふき]萱屋には無難あれとも、土藏瓦屋の分は過半壞れ倒
れ又はかたふき、家財器物をみぢんに碎く、其音數千の雷の
一度に落くる如くにて、すさまじなど云ばかりなし。貴賤上
下老若男女打まぢり、あはてふためき逃惑ふうち數ケ所より
出火して炎天をこがし、地震の火氣もくはゝりて、白晝の如
し。其混雜譬へるに物なし。上を下へとかへす故、人は人に
踏倒され壞れかゝる[棟|むなぎ]や[宇|のき]に打ひしがれ、あるひは烟りにと
りまかれ死亡するもの數しれす。君臣も離散し親兄弟を見失
ひ妻子に別れ存亡いかにと呼かはし泣さけぶ聲のみか火に攻
られてくるしむ聲四方にみちて喧く、修羅の[巷|ちまた]を眼の前に見
るよりあはれの有さまなり。かゝる非常の大變其前表なきに
しもあらず。今年は冷氣いやます比及に殊の外あたゝかにし
て梅桃大かた返り咲、九月下旬空低く星大きく顯れ、又は所
所に水涌出、其外怪敷事ども多し。心有人々は只事ならずと
眉をひそめ歎息せしが、はたして此凶事あり。櫻は實を結ふ
こと輕き故、二度咲もまゝ有べし。桃李は秋近く迄實を保つ
ものなれば、桃の返り咲はあやしむべきの一ツなり。天地開
闢以來の大地震は白鳳年中土佐半國減し伊豆の嶋裂けて八嶋
となりしときは十一月といへとも暑中の如く火氣履ものの裏
をとふし、桃李花ひらくとあり。近くは文政十一子年霜月越
後の地震には田の水川の水あたゝかにして小魚悉く浮みいづ
る。同十三寅年七月京都の地震は別而あつく煮湯の中に座す
る如し。弘化四年信州越後の地震にも火氣ありて甚あつし。
さあれは季候に應せすあたゝかにして諸木二度咲空低く星大
きく顯れ井の水江の水俄に溢れ或は涸れ所々に水涌出る抔は
皆大地震の前表と心得油斷なく用心すべし。