[未校訂]嘉永七甲寅年十一月廿七日安政元年と改元した。十一月四日
の朝辰の下刻、俄に大地震の襲來があつた。家屋の倒潰は勿
論死傷者をも出し、小震が續發するので、人々の恐怖甚し
く、或は小高き處に假屋を作り、竹藪などに避難して、十日
間計りは家に歸るものなかつたと云ふ。須々木村地代香川蘆
角氏の地震年代記に、
嘉永七年十一月四日(此年改元有りて安政元年となる)辰の下
刻諸國大に地震す。(志州勢州邊より西の方なる國々は四日辰の
刻と五日申の刻と兩度の大地震なり)我が里は他所の死人怪我
人多かるに比べては、地震小なりと雖も、瞬く間に倒るゝ
家あり、殊に瓦葺の家・瓦の軒端などは大半破損して諸人
甚だ恐懼する折から、俄に千仭の山の如くなる波起りて打
寄せんとしける故、諸人皆山上へ逃登れり。隣鄕には波打
入りて流失せし家もありと雖も、我里は幸にして洪波の打
入る事もなく、暫くありて波打鎭ると雖も、尚隙なく地震
し、程なく日も暮に及びければ、芝新藁等にて四方を圍
ひ、山中に打臥けるが、其夜寒風吹起りて空搔曇りける
故、若し大雨來らば如何にして凌がんと人皆案じ煩ひける
が、漸く空も晴れ事無く夜も明けれども、里に歸る者なし
其後五七日も經て皆々里に歸りけれども、又々洪波の打入
る事もあらんかと、五軒六軒又は七、八軒づゝも一所にな
りて小高き處に假家を造りて日を送りけるが、二十日ばか
りも日を經て後、面々に屋舖々々に立歸り、家の倒れざる
者は破損を補ひ我家に入り、庭中にも小屋を造りて彼是往
來し、家の倒れたる者は□□の家を作りて住居して、又大
に地震せば兎せん角せんと豫め逃出すべき工夫をしてぞ暮
しける。此時大海の水減じ干瀉となること數十間にして、
我隣村落合てふ所の海は昔より見たる事なき岩根多く顯れ
出で、人々皆此の岩根にて海草類貝類などを採るなり。相
良湊・平田村の海も亦然り。さてまた相良・川崎邊は我里よ
りも地震甚だ強くして、破壞せざるは僅に三四軒づゝの
み。且又相良は火難起り、殘火○ママなほ燒失し、死人三十
人計り、怪我人廿人計り、川崎にて死人廿餘人怪我人十餘
人あり。相良・川崎の間なる坂井村に長德寺と云ふ曹洞宗
の小寺あり。この寺の門前に溫泉湧出で、諸人浴するに萬
病に効驗あり云々。
此の時相良町附近は一帶に土地が隆起したと見えて、萩間川
は水深三尺餘を減じ、從來湊橋邊まで船舶の往來があつたの
が、以後五百石以下の船でなくては出入が出來ぬやうになつ
たと云ふ。