[未校訂]一嘉永七年十一月四日晝四時、江戸大地震、此時東海道箱根
山崩れ、數日往來留りし也。三島邊別而強く、不思議なる
は三島明神の御神體失たりとて、神主より寺社奉行安藤長
門守へ訴出たり。沼津宿殊に強く、水野侯城崩る。同領分
駿東郡下小林村と言は愛鷹山に添ふたる所なり。此村長凡
貳百間、橫五十間程、民家十一軒、立木共大地より五六丈
震り込、男女牛馬多く死す。他所之者行て漸四五人掘出し
助け候由。きく伊勢路ことに強く、津浪入し場多けれど、
山田邊はかろく、太神宮いますあたりは更に震たる事なし
と、江戸へ戾りし人かたりぬ。
一伊豆國下田に橋本長之助と云あり。近き頃妻は世を去、老
母と八歳の伜あり。母は盲目の上、中氣にて立居自由なら
ず。折しも嘉永七寅十一月四日大地震のゝち、同日午時過
津浪打上、此一里皆流失、人民牛馬鷄犬にいたる迄多く死
す。此長之助は老母を背負ひ、伜の手を引、山のかたへ心
ざす。老母いふ樣、我は年老たる上、病身なれば翌日の命
もはかりがたし、されば此所に捨置て、行先永き孫を助よ
と云けれど、母を捨るに忍びず、いかゞすべきと思案の所
へ、二ノ波にて舟一艘より來りければ、是へ母を乘する。
みるうち引波にて舟は終に見へずなりぬ。伜はいかゞと尋
るに是もゆくへ知れず。されば母を捨たる甲斐もなく、我
身は山の方へ遁れ、うしろの方を返り見るに、又三の浪來
りて人家立木こと〴〵く流失、沖にありたる大船、下田の
町をうち越、本鄕村邊までゆり上、其儘に波は引て、あと
は平原のごとく目に障る物はなく、されば母伜の生死計が
たく、我のみ斯命助かりしかひなく泪にくれて居たりけり。
翌日に至り不計伜に逢ひければ互に手を取嬉しさの餘り
たゞなく外ハなく、老母は迚も助命すべきやうなしと、親
子共佛の御名を唱へ、其夜は山上に明し、翌日になり一さ
と稀に生殘りし男女老若四方へ馳廻り、親子兄弟夫婦のも
しや無事にてゐる事にやとさがしけれど、長之助親子は尋
べき心もなく、只泪にくれてゐけるに、不思議や老母の乘
たる舟、異國船に助られ、よく日恙なく下田の町へ送り越
しければ、三人打寄悦ぶ事限りなく、長之助は猶母に孝を
盡しけると、近き濱村なる雜賀屋のあるじ予に語りぬ。