[未校訂]予が住なれし高知新町といふは其むかしは潮田なりしを、寛
永十三年築かれて市街となれり。古名は上知寄といひ今の下
知は下知寄といひしを寄の一字を除かれて村の名とはなした
りしとかや。されは開基よりは纔に二百十餘年の新巷にて土
地 堅固ならざればにや、去冬の震も他所に異り其大破いふ
計なし。されども不測に火害を免たれば幸甚の餘り末世の考
據にもならんかと恐ながら、御届書を發端として震に火に潮
に現在の事實を集錄して三災錄と號し長く巾笥に祕置ぬ。
安政二年乙卯季冬日 白頭老人實識
附て云、廿代町に谷脇茂實とて今年七十六叟の老人有、常に
記錄する事を樂しみて予が老らくの友なり。大變の日も早く
自船に取乘り八日の間船中にて見る儘を筆記す。其中にも震
の事は後人の爲にとて懇切を盡す事感に堪たり。されども子
孫の教訓事をも記しつれば他には出さずといへとも、是去冬
地震記の魁なり。予もかねて記し置まほしかりつれとも、震
後は他所に在て筆を起す事も空敷なりつれば、今は右翁が實
記を本文とし、其尾に取付細註を加へ將實否もしらぬ巷談を
も時々聞儘に記し老筆を勞し清書をもみつからものしつれば
此一册上下ゆめゆめ失ふ事有ましきものなり。
巷談(地震部)
○凡今の高智と呼ぶ惣名元は河内にて大高坂(今の御城山)を
云しなり。此山むかしは大河の中なりければ河内と號せしに
御入國後水損多かりければ、慶長十五年五臺山空鏡上人、命
によりて其文字を高智と改し事古記に見へ、また天正十五年
丁亥秦氏地檢牒(大高坂村の牒表紙の裏に云)此牒大高坂の御城
廻り、東は海詰て西は新市の西鹿の穴限南は潮江の川限北は
大川は大川を詰て中の牒なりと見え、叉土佐物語(卷十五六)
天正十六年の冬大高坂へ城移し有ければ云々(元親朝臣の豊岡
より此城に移徙は此年なり)、此地境内狹く民家を建る壘地もな
ければ淵を埋川を潰し地形を築廣くせはやと宣へども、四方
皆大川にてしかも北に洞島の淵鱸碞東に太布ケ淵籠淵知寄な
と云底もなき淵あれば及ふ所にあらす云々とあるにて其古の
有樣をおもふべし。按するに地檢牒に東は海詰てとあれば、
今の本町の堀詰より東は海にて有しを追々に築かれて新田と
なされ、叉其新田を埋られて今のごとく市街となし、新町は
寛永十三年の開基同丁東足輕町は下知叉其後の築立なれば、
去冬の震も極めて重かりつらん。江の口潮江も同斷なり。此
兩在所は震の時土地裂けて泥水を吹出せし事他に勝れたりし
は、上に抄出したるごときの土地柄なれば成べし。
再云洞島の淵は今の端應寺の邊叉鱸碞も其近邊に在。知寄
は今の下知なり。古は上知寄下知寄といひしとの傳説なり
叉云田淵田の中と東石井留に流れ出たる井溝を今もチヨリ
と云。田淵半より東は今も下地の支配なり。
○郭中並上市中叉は山岳の地は堅固なるゆへにや、古き家藏
は破損も有つれとも、失火もなく死人もなきは震輕き故なり。
右地檢帳にいへる大高坂の御城廻り西は新市鹿の穴と有れば
下市中のごとく新築地にあらざる事しられたり。
再云、今新市の鹿の穴といふ所失たり。古老の傳説に今の
本丁四丁五丁むかしは萱原にて兎狩なとせし所といふ。さ
れば其原中には鹿の穴と號し來れる岩穴なども有し事にや
御入國の後開發せられ街となしぬれば、今其所をしるもの
は有ましきなり。
○潮江の漁師に助左衞門と云古老有、平素能く天氣を察し、
晴雨等を知る。此者去十一月五日の朝東の空にほのかに月影
の見ゆるとて人々にも教へ、且潮の狂も甚しければ大變有べ
し、其用意すべしと隣家へも示しける由。五日の月の其朝よ
りあらはれ出し事天學者流の論も有べけれとも、予の家に來
馴たる土民某も其月を倶に見たりとてみづから語ぬれば、聞
儘を記しぬ。實に卷中の一奇談なり。
再云、地震考(文政十二年七月六日洛中地震の事を記したる印行
の書なり、書寫して追加に出す)に六月廿七日の朝いまだ日も
出ぬ先に虹丑寅の間に立を見る、凡虹は日に向ひて立は常
なり、いつれも常にあらざるは震の徴とや云んと有。
叉同日大震あらんとする時巢山の泊鳥林中を出て殘らず磯に
下り群集せしを渡海せし者見たりとて語りき。
再云、地震記に云、鳥は空中にありて能上昇の氣をしる、
今度地震せんとする時數千の鷺一度に飛を見ると有も皆同
日の談ならん歟。
○潮江新田邊は大震二三日前田地の蚯蚓悉く道路にあがり死
し又死せざるも數多ありて人不審しけるとなり。震あらんと
てかねて地中には潮の廻り居しものならん。蚯蚓の潮氣を嫌
ふ事は人皆しる所なり。是等は末世の考據にも成べき事なら
ん歟。
○地震日記(谷脇茂實筆記)に云、予は老體無用の身にて震のゆ
り樣に氣を付けて見れば時々模樣の違ふ事有。始に荒く來り
て後にゆらつく有、又始ゆらゆら來て後強き有、又一と突來
るも有、又地の底よりさび上るも有、地ゆりても空はゆらか
ぬかとおもはるゝも有、又空は強くゆるも有らしく、又空の
ゆり軽からんとおもはるゝは飛行鳥にしられ、又飛得ずして
地に落るも有といへり。いかにも此考密なるやうなり。予の
家も半潰にて倒れはせね共、建具悉くはつれ倒れしかどもさ
して損ぜず。又蓮池町東一丁の内酒肆(中内屋利兵衞)が門のほ
ね柱大震におのれと拔出て倒れたりとぞ。是等もさひあけて
ゆるも有なりと現に見たりし者語りぬ。此柱の傍に彳し者危
き事にあひしと云。
○凡震は龍の風を起すがごとく其道あるやうなり。尤藁家枌
家は潰れても害少し。紺屋町新市町邊に死人多きは土藏住居
ゆへぞかし。又逃出るといへども家塞にて壘地なき故なり。
市中の者は障なき空地を構置、一先其所に除れ出て互に考合
せ夫より用意して屋敷をば立のくべし。去冬の變には我眞先
にと町に出たるゆへ、隣の潰家にも打れて死たり。心得有べ
き事なり。又此時家を逃たる者過半打れ出ざる者過半助りた
りともいふ。時宜寛急は其時にあるべし。
○大震に戸外に逃出る事は當然ながらある場所は心すべし。
浦戸町に隣家同士女子三人高塀の下に遁れ出て、さても恐し
かりし事よ。是より南の川原に行べきや、尤津波のほとも恐
しければ五臺山の山にのぼるべくやなど爾來の睦しさにうら
なくしめし合する中又ゆり來り、高塀倒れ打れぬ。二人即死
にて一人蘇生したるが、人に語りて後々までも恐れしとなり。
再云、方丈記(加茂長明筆記)に云、元曆の頃大地震ふる事侍
りき。其さま常ならず。其中にある武士の子の六七計に侍
りしが、築地のおほひの下に小家作りてはかなげなる跡な
し事をして遊ひしが俄に崩れ埋られて平らに打ひさがれて
二の目なと一寸許打出されたるを父母かゝへて聲もをしま
ず悲しみあひて侍りしこそ哀れに悲しく見侍りしか。子の
悲しみには猛きものゝふも恥を忘れけりとおぼへていとを
しく理り哉とぞ見はべりしと有。同一談なりき。
○蓮池町に浪人醫有、男兒を下婢に負せ他行させしが、道に
て土藏にうたれ埋れて死す。間もなく火災と成ぬれば、其父
翌朝尋ね來て屍を掘出しけるに、子は兩手をして下女が首を
〆、下女は又兩手を子の背に廻し力を入負たる儘死ても不放
人々しひて引分んとするを父が留めていふ樣、双方實に餘儀
なき事なり、小兒は何心も有ましきに下女が一心不亂に背負
てゆるまざる忠心見届たり、仍て主從合葬を許すなりと云付
て其儘始末しけるとなり。哀れなりける最後なる哉。
○宿屋にて赤岡の家相者潰家に敷たり。人々集り來りて引出
さんとすれども呼て出す。土木の透間よりのぞきみれば大股
へ五寸釘貫たり。引出さんとすれば此疵いたむ。此者いふ樣
我所詮助かるべき道なし。又火も段々と燒來れば我をば捨置
逃去れよといふにそ是非なく捨置打過る。道にて老女の倒れ
たる有、是も打れしと見へて這事も出來ず、しひて助んとお
もへども半死半生の境にて背負事も不叶。是をも見捨、火後
尋ねて來て見れば二人共其所に焦け死たりとぞ。大焦熱のく
るしみもかくやあらんと無慙なりし事どもなり。此家相者お
のれが大難は見へざりしものにやと或者語りし。追加に出せ
る槐記の四方市と同談なりとおぼゆ。
○震後津波を恐れて家中の面々本町より南は眞如寺黑門通り
山に登り、大田尾と云所に幕打廻し、道具建ならべ、いかめ
敷實にも立派に有しとぞ。陣所の有樣もかくやあらんと見し
人かたりぬ。小高坂山は宋善寺出口の山々なども同斷に有し
となり。御家老中にも精舍あるひは山莊等に立のかれしも有
しと云。尤遁れ出る土地巖石山下は心すべし。
○士外の輩は由緖を尋ねて近在に遁る。よるべなきは山野に
宿す。久萬村山中にて其夜平産せし女の有けるが、其傍に寄
特なる人々ありて母子に藥を與へなとして介抱にあひしとな
り。夜明けて見れば打物爲持られたる御醫師の御内衆なりと
ぞ。又或家に八十有餘の病婦有、其子の背負て比島の寺に遁
れしに、道筋の動搖につかれて其夜空敷成ぬ。火宅を出て精
舍にて往生を遂しか、是等變中の大幸ならんか。
○新町にて小祿の者病死して十一月五日潮江山に送葬するに
廣岡町にて大變にあひ、舁行者棺を投捨面々ちりちり逃行け
れば、親族共も心元なく成て是非なく柩を其儘にして歸りし
とぞ。其夜は火事と成たれば、翌朝家内共雇人して互に尋ね
けるに、棺も恙なかりければ再舁せて入山せしとなり。一説
には南川原に舁出し置たりとも云、さも有べし。尤川原は其
夜高潮人來りしにも異事なかりしにや。又廣岡町も朝倉町半
より東北輪は類燒しつれば、是又危き事なりしに、返す返す
も水火の害を遁れしは此上の幸甚ならずやと街談まちまちな
りし。
○大震の日は相撲ありて諸人其場に群集す。播摩屋丁邊の者
行んとするに、男兒有ものにて倶に行んと云、凡角力場に小
兒を連事若き者どもは嫌ふ習にて、いろいろすかしその機嫌
取に子供翫物の茜染の緞子を買ふてやり、是にて漸と納得さ
せ、おのれ一人は酒肴を携へ行たりとそ。震後歸りて見れば
家は潰れ火も懸りぬ。翌朝埋みし土を取除て見れば我が子は
裸にてきのふの緞子を結ひながら死たるを掘出しぬ。餘に家
に家内の者も有つらんに、是そ眞の不幸といふべし。父の心
はいかに有つらん、子を持てる親の忘るまじき話なりき。
○新市町の橫丁に老婦潰家に敷たり。其嫁小兒を抱きながら
走來りて我も倶に死せんとて泣叫ぶ。姑我はかく打れて叶は
ざれば其孫を賴む程に早く逃て呉よといへども、いつまでも
見すつる事ならじ、火來りなばともども燒死なんとて泣叫ぶ。
其意天通やしたりけん、人々集り來り老婆を掘出しければ、
三人共難を免しとかや。是嫁なる者の孝の德によりてなりけ
り。
○農人町の下に九十餘歳の爺有、是も嫁なる者背負て逃んと
いへども老ひがみ承引せず、いろいろ機嫌を取中家潰れぬ。
土木を取のけて見れば、嫁は極老に組付たる儘にて倶にうた
れ死たるとぞ。かゝる期に至りて心を變ぜざるは平常の孝心
おもひやるべし。又母を打せて其子は無事なるが自然世の治
り己屋住してつらつらおもひめぐらし、我大變を恐れしあま
り不覺にて母親を失ひたり。今は世間に長らへたりとて生甲
斐もなく又人前もならず、仍て覺悟可極ほどにおもふなりと
親友に語りければ、友の云樣、尤千萬なれども親の敵は地震
なり、以來地震に巡り逢たらば敵を討て遣恨をはらすべしと
嘲弄せられしとなり。是おもしろき喩なりけりと風聞なり。
心有べき事ともなり。返す返すも心得有べき事にて懲惡の基
本ならずや。
○市中に後家暮しの女有、縫物の上手にて女兒を集め指南す
震の日も十人計會したるに其家潰、裏口へ逃出師匠もちりち
りに成ぬ。扨四方より家藏潰れ懸り來れども、いづれも少女
の事にて棟傳ひ逃る事もしらず、十方を失ひ泣々さまよふ中
火事と成り煙にむせび燒死たるも多しとかや。火後親兄弟と
も尋來り死骸を改むるといへども十二三歳計の小娘のしかも
頭髮も燒て分明ならざれば、詮儀も片付すさればとて仕方も
なければ屍へ一番二番と番付をして鬮取にして家々へ引取し
となり。勿論人の子もあらんを我子とおもひ定め追善供養す
るこそ不便なれ。いかなる前世の宿業にやと或者語りし。
○不意死したる亡者は棺屋殘らず燒失したれば蒲團に押卷て
葬埋せしとぞ。其旨檀那寺へ告引導賴みし事か、一僕連たる
僧が山中の新墓に讀經して廻り居たりしを山中に止宿したる
者ども見たりとて語りし。又慈悲僧ありて新墳を供養して廻
りし事か、いづれ殊勝の事なり。
再云、方丈記に養和の頃かとよ。二年の間飢餓して淺まし
き事侍りき。仁和寺に隆曉法印といふ人かくしつゝ數しら
ず死る事を悲しみて、聖りを數多かたらひて、其死首の見
ゆるごとに阿字を書て緣を結ばしむる業をなんせられける
其數をしらんとて四五兩月の間かぞへたりければ、京の中
一條より南九條より北京極より西朱雀より東道のほとりに
ある頭すべて四萬二千三百餘なん有ける云々と有。新墓の
僧も此意にや。何寺の住侶にや有けん聞まほし。
○播磨屋橋南の岸に鐵物屋有、手代八九人の内四人土藏の二
階に在し時ゆり潰され一同埋りぬるに、仕合なる事は梁や桁
や柱や組ちがひながら倒れ懸りたる透間ありて其所に集り、
命は助りたれども土四方より潰れ懸り眞の闇と成ぬ。聲の出
る限は呼はり叫べども何かは外に聞けん、よしや聞ゆるとも
地震は隙なく又津浪に恐れ家内の上下ちりちり立除たれば、
誰ありて此中に人有事をしらん。四人の者とも明に出ん事を
神願すれども術なく實に盲者の杖を失ひしにひとしく手を空
敷して日夜を送る中、家根裏とおぼしき所に探り當りければ
あら嬉しやと精力を盡し内より他事なく[掘繰|ほ〓くり]、穴よりぬけて
七日といふに此世界に出たりとぞ。今二三日も土中にあらん
事は斷食の身の叶はざる所なるに、是必神佛にや有つらんと
風説有し。
○赤岡浦の役人が大震の場合御藏米數拾俵取出せし砌なるに
役下の者とも津波にや來らんとて逃出んとす。役人大に怒り
此御米を始末せずして立除るべきや、津波來らばともども溺
れ死なんと其旨下知し御米をば殘らず御藏に入させ封印をし
て役所に歸り、諸帳面等夫々取片付自若として、侍所に高潮
入來りつれども御役家の隙に入、御藏には入ざりしとなり。
是役人の當然ながら人々の心得に有事なりと。美談なりし。
○震後日々津波入來ると云妄説に恐れ、仕官の輩も山野に隱
れ日を經れども歸らず、御近習勤は尚更日勤場所は勿論なる
を何んの事をも思はず婦女子のごとく惑て勤を怠りし族御聞
糺ありて追々役を退らる。實に面目もなき臣下なり。かゝる
時こそ忠情は可抽時なれとおもはる。
○震の道に當りたるにや新市町三丁の四辻殊に甚し。戌亥な
る道具屋は主從七人(男二人女五人なり瞽女一人來り居て即死す、凡高知中の盲人數多ある中に此外に
不聞實に天助といふべし、)未申の古手屋は主從六人男三人女三人丑寅なる酒屋は
主從四人男二人女二人辰巳なる藥店二軒は主從九人男五人女四人潰れ家に
打れ都合二十六人即死す。外輪往來の者も數人幷馬一疋打殺
されぬ。惣て此邊死人過人多かりしと聞ぬ。其後右藥店の家
敷の邊にて夜陰深更におよび助けてよ助けてよと云聲ほのか
に聞ゆ。其聲西に有かと尋ぬれば又東にある樣にて蹤跡はな
かりしと。其家の手代より聞たる人語りし。扨此怪敷事を尋ぬ
るに其家に通ひ來る番頭が妻雇れて數日滯留して在りしが、
大震にあひ裏口へ逃出つらんに土藏潰れ懸り、外輪へ逃出ん
も女の身にて十方を失居る中火事となりて燒來りたれば、詮
方なく盥を冠りて[尾井|もみぬき]の井に入りて有しが、追々の震に井も
埋れつれば、女は土の下に日を迭りつるが、呼はりし聲ならん
を晝は物に紛れて聞へねとも夜更人靜れば聞へしならん。後
此屋敷の灰燼を取除せし時此有樣を見出しつるに、數十日を
經たれども死骸の其儘存在なりし事奇談といふべし。自滅す
る迄の心の中おもひやられて哀なりき。實に大變中の千辛萬
苦此一婦に縮りたりと云。
再云、地震日記にも此一條を記して其尾に云、享和元酉年
十二月晦日細工町より出火せし頃、仁尾清太夫祖父手代壹
人と倶に煙にまかれ、是非なく盥を冠り階子して井中に入
りて助し話有。此女も是を聞傳へて居りしやと云。されど
夫は堀井戸今は揉拔井戸なれば深四五尺ならんとおもはる
大變は去十一月五日掘出せしは今正月六日なれば日數六十
一日なるに死骸損せずして有しと云。水斗呑て數十日長ら
へ自然落命せしや返す返すもいぶかしき事なり。
○蓮池町の上に反物屋有、家藏潰れて燒たり。家内共は立退
たるに亭主一人行衞しれずして今年に成ぬ。時に八月の上旬
其隣家豪商淺井の屋敷の裡金藏二ケ所、建たりし中に井溝あ
り。其溝の燒土を取除せしに其底より右の者の屍を掘出しぬ
るに金子を數多袋に入て首に懸たりし由。此事を家内に告や
りしに馳來りて死體に手を懸ければ、はらはらと亂れたりし
と云。其儘物におさめて始末せしとなり。凡十ケ月も土中に
埋れて自然朽滅せさらんはいぶかしき事なり。金子は全かり
しと云。多分此富家を見込此金藏へ預んとての含成つらんを
いかにも不便なりし事なりと聞しまゝ記せしが、頃日聞は左
にあらず、八月の始金藏二ケ所の燒土を亭主も立會とふしと
云物にて通し金銀の燒埃まで撰出せしに骸骨一ツ出たりとそ
人々驚ける場合又烟管の皿吸口共出たるに是平常右の反物屋
が所持の物なれば彼者に極り家内に告白骨を始末させしなり
是定説なりとそ。さもあるべし。予も相識の者にて殊更哀な
りし。
○菜園場竪町に鐵物屋有、川岸に沿ひて土藏數ケ所建つゞけ
たりしが、大震にゆり潰され金銀も川へ落入しに、潮は日々
高ければ取あげん事かたく、潮江の漁師二人をやとひ牡蠣を
取あぐる熊手にて舟より水中を探り財寳あまた取上しに小判
九百兩入の箱流失にや紛失したりしが、今年十月の始右漁師
の妻判金携へ兩替屋にて壹步と二朱と錢とに交易せしより不
審起り、夫某を御召捕に成糺明有しに、右箱水底に沈有しを
見付置夜陰舟にて二人盜取金をば配分せし由つばらに白狀に
及び、入牢被仰付たりと聞たり。昔も長曾我部盛親大阪役所
の後伏見に隱れ渴命におよび、黃金もて飯米を求めしより露
顯し洛中を牽わたされ六條川原にて刎首せられしも同日の談
ならずや。天罰遁れざる所なりき。又大震の紛に淺井が家其
餘番頭手代等主の大金を盜取後日自然露顯し今御作配懸りと
なりたる多し。大瞻不敵の不忠此上もなき者どもなり。以後
の嚴罰おもひやらるゝなり。
○震後程へて吸江に遊びしに呑海亭都て異常なし、吸江寺は
撞鐘堂岸より崩れ大破、並に三重の高岸過半崩る。夫より五
臺山に登り文珠境内を見廻りしに、堂塔はさしたる傷もなけ
れども、塀や石燈籠は過半顚倒したる多し。中にも柵を結た
る御寄進の一基笠石に火袋地に落火袋は破損したり。是正保
二年の古物にして寳永の變をものがれ、しかも山の絶頂に建
なから惜哉二百十餘年を經て敗物となりし事、實に歎かしき
事なり。其棹石に彫刻せられたる銘に云。
石燈籠於伊豆國探巨石彫造之而漕運于東南海以寄附於土
佐國五臺山竹林寺金色院文珠堂
正保二年乙酉七月吉日
土佐國主從四位下侍從 藤原朝臣忠義
(追云、本文御石燈籠ハ文珠閣ノ正面ニ一基アリ。凡古昔
ハ今世ノ如ク堂社ノ左右ニ兩基建ル事ハ無リシナリ。則
嚴島鞍馬寺又ハ熱田社南禪寺等ノ大石燈籠モ皆一基ナリ
ト一書ニ見ヘタリ。又戌午ニ登リテ見レバ、本文火袋ハ
仕〓アリテ今ハ新物トナレリ。惜ベシ。)
再云、吸江寺の撞鐘堂に名鐘懸れり。形は風鈴に似て當
鐘のごとく肩を衝すして古雅なり。又音聲凡ならずと聞
り。鑄出したる銘に云。
蓮臺寺天曆十年二月頃陶鑄鐘矣
と有。蓮臺寺は土佐郡に蓮臺村有、此村にありし寺にて退轉
せしにや。又は他邦の古鐘にや不詳。去年に至八百餘年の古
器なるに敗物と成ぬらん。是亦をしむべし。
○新町に山本屋傳助とて孝心奇特よろつ正直、正銘の小賣人
有。大震の時は他出したりしが直樣馳歸りぬるに、居宅はふ
るき土藏なりしかば潰れ家と成る。扨おもふ樣、母は中風に
て手足叶はず幼年者も數々あれば妻が手一つにて連出し事は
覺束なし。必此下に埋れぬらんと大音をあげて呼ければ、案
のごとく下にて答ふ。嬉しくおもひて掘て見れば、老幼妻と
もども梁や棟木や柱や組違ひたる下蔭に一同物語して自若た
り。土木を拂ひ連出しけるに露斗の怪我もせず。又此潰れ家
類燒もせざるは天ならんか。凡變に望み異事あれば人にも聞
えまちまちの説もあらんを人のしらざるこそ孝の德且は隱德
のむくひならめと某語りぬ。
○寳永地震の筆記に人を轉す事丸き物を投轉すが如し。おそ
ろしき事何とも十方有ものなし(南路志)。諸人廣場に走り出
るに五人七人手に手を取組といへども、うつふしに倒れ三四
間の内を轉し、あるひはのけに成又うつふしに成て逃走事た
やすからず(萬變記)とあれども、去冬の震に如此事なし。さ
れば至て輕かりしなり。予は川原の相撲場筵敷に居たれば何
の愁もなかりし。尤大晦日の大震には坪にありしが、おもは
ず轉びたりしにいさゝかも怪我もせざりし。家族共も轉びし
事なく、ある人云震中足早に走れば轉ぶものにあらずといへ
ども、何分足元は老壯のけちめもあるべし。
○又舊記に大地二三尺割れ水湧出、或は四五尺われ泥水を吹
出しとあれども是又此の度の震は寳永より輕きゆへ市中には
なし。尤中島丁二ケ所の溜池の傍二尺計割たり。又松か崎稻
荷前より東同斷、其外江の口潮江に多しと云。下知南の丸堤
兩方へ裂六尺程も割たり。就中布師田橋より東の堤双方へひ
らき大にわれ、同村の沖に新屋敷と云有、此地割甚敷土藏片
軒割に落入しも有となり。是埋地の新屋敷なれば成べし。
○去冬大震以來甲浦を初東灘の湊は淺くなり、下灘の港は深
くなりたりと云。震にて地の高下する事ありと聞、左のごと
し。
再云、宮崎高門(竹助)筆記ニ文化五年戊辰予測量使(伊野勘
解由)ニ隨從ス。寳永四年ノ變東ハ地高クナリ西ハ低クナリ
シト云。談ニ及使答曰地ノ高下スル事國々ニ多シ、怪ニ足
ス。且南北ニ海ヲ受タル國ハ漸々ニ濱デキテ海地トナリ北
西ニ海ヲ受タル國々ハ濱滅テ地海トナル。吹上ノ地紀伊ノ
國人ノ知ル所其他諸所ニ多シト云。奇談ナレバ記スト有。
○寳永の震記數册を參考するに、只一旦の變事のみを記して
幾年ありて治したりし事見へず。儒臣宮地氏が日記に云。
寳永四丁亥九月三日巳刻地震、同十月四日未の刻大地震古今
未曾有、同五年戊子正月元日地震には時々有、同六年已丑三
月十一日卯刻地震稍大なり、四月廿二日酉刻地震頗大なり、
同戌刻又大なり、十一月廿二日子刻地震、以下闕卷となりて
不分と有されば三年止ざりし事證とするに足れり。潮も三年
を經て治定せし事物には見へざれども相違なかりし事田野浦
住福留某彼浦の傳説なりとて語りぬ。おもふに震も潮も同一
封の動揚なれば此傳説よく符合すべし。されば今震も來丙辰
に至治定すべし。往々頭書に記さんとおもふのみ。(本文日記中小震の
分略す)
再云、辰巳兩年モ折々小震アリテ未治セズ。午年モ同斷未
年ニ至リテ治ス。
因ニ云、地震の和名をナヰと云、佐渡の國にては今もナヰ
フルと云由は追加に書せる地震考に見ゆ。當國にてもナヰ
といふをナヤと誤りて寳永の頃までいひし事左のごとし。
○柏井難行錄(寶永の變記なり)に老祖母謂て曰く、是ナヤとい
ふものなり、かかる折は藪中に入事なりとて家族共北の藪中
に入ぬ云々と有。
追云、紺屋町聞出文盲と云書に寳永四年亥の十月四日大地
震、其以前迄は地震といふ事をしらず、ナヤがフルと云け
るが、地震と唱へ初しは亥年より初れり云々。
又云、今も幡多郡奧田鄕にてはナヤカイルと云て地震とは
云ざる由。西泊の浦人語りき。イルはユルなり通音なり。
○又ナヰを讀たる古歌(日本紀十六武烈天皇御巷前文略)。
於彌能姑能耶賦能之魔柯枳始陁騰余瀰那爲我與釐據魔耶黎夢
之魔柯枳(契仲云、ヨとユと通音なればヨリコはユリコなりと日本
紀哥解に見へたり)
○又口碑に傳ふる俗歌。
六ひてり五七は雨よ九はやまひ四と八とは世の騷きなり、か
と幼なる時母人にならひたれども、五日の震も七つ過なれど
も其當時雨ふらず、白鳳は人定、寳永も八時なれども大變と
いふ計の事にてさして世の騷といふほどの事を聞ず。
○又震の時女童カハカハといふは川の水を見よ、干水よなり
たれば忽津波入來る徴としらせし諺なりとぞ。此言江戸にて
は萬歳樂萬歳樂と云。上方にては世直り世直りと云。文政十
亥年京都大震の時加茂末鷹の狂歌に、大變を太平と書き世直
して國もゆつたり家もゆつたりとよめりしも、いづれ後を祝
したる諺ならん。
○此一册の大尾に追加したる印本地震考と云書に云、世の諺
に地震ははじめきびしく大風は中程つよく雷は末ほど甚しと
いへる事をもて、初の程の大震文政十三年京都の大震なり)はなき事なり
とさとしぬれども、猶婦女子小兒の類はいかゞあらんと按じ
わづらひて、いかにやいかにやと尋ねとふ人の多ければ、舊記
をしるして大震の後に震ありて止ざるためしを擧て人の心を
安くせんと左にしるし侍りぬ。○中略かく數々有中にも皆初は
大震にて後小動は止ざれども初のごとき大震はいさゝかもな
し。我友廣島氏諸國にて大地震に四度逢たり。皆其國に滯留
して始末を能くしれり。小動は久しけれども初のごときは一
度もなしと申されき。是現在の人にて證とするに足れりと有
當國にても寳永度の事を考るに、秋暮獨覽集に十月四日の大
震の事をいひて同十一月十六日酉中刻の震、去月四目の大地
震に次ての強震なり、此後も難計いつか鎭り可申やとあり。
去冬も大震後十二月二日十一月五日に次べき大震有たれとも
五日には及ばず、其後大震なかりしを思返せばいよいよ廣島
某が言的中ならんと予は安堵し侍りぬ。
再云、されども家作する事は心得有べき事なり、蓮池町筋
に小緣の者有、潰家の上燒たりしが、三十日に足らざる中
新に瓦家を建たり。町柄にしては目に付立派成事なりし、
凡職人は御作事方より御用懸り寸隙もなく、又竹木は材木
町殘らず燒失したれば皆無なる時節に手の廻りし事なりと
て羨む者も多かりしとなん。巷談を聞ば五臺山村に親族あ
りて彼等の其里にて計らひ土砂までも船にて送り建立せし
と云。實に下市中家作の魁なりしが、大三十日の大震に半
潰に成、切組も折れ廢物と成り、日ならずして毀ぬ。宮地
氏寳永日記にも三年の後までも折々震有し事を記たれば、
不自由を忍び已屋に暮し、家作は三年の後營むべし。前車
の覆りし事をおのれも現に見たれば後世考合すべし。
○宿毛主の家臣(竹葉彦之亟)は高知の邸に在勤す。留守には老
母並に妻に子三人有。末子は出生してわづか廿日計なるが妻
に乳なければ子供殘らず引具して貰乳に行し跡にて去冬の大
震に逢ひ、直樣歸宅せしに、勿論家潰れぬ。老母は高年にて
手足不叶なれば埋し事疑なしと、隣なる近族某が方に行しに
某も他行して居らざれば、三人の子を家内に預置身一つに成
り、宅地に歸り母を呼べども土の下にや答ず。されども外に
走り出べきやうなければ、只母の安危のみに心を苦しめ津波
入來らんと人々は叫べども耳にも不入ひたもの瓦土を取拂ひ
ける所に、右の近族外に壹人馳來りともども仕除けて見れば、
案に違はず母は梁に敷たり、三人互に力を合せ辛ふじて引出
しけるに、腰をば打しけれども一命に支なければ、妻が背負
て近山にのがれ介抱せしとなり。今少し遲かりつれば水火の
難遁れざる所なるに、此婦が貞操によりて蘇生したりとなり
去ほどに此女平常孝女の名いさゝかもあらざりしが、誠にか
ゝる變に臨んで天性の美あらはれ、高府までも夫が名をも顯
しけるは實に貞烈前代にも比類稀なりといふべし。
○大震に恐臆して仕官の輩も槍長刀をも忘れ主從混亂し、又
婦女に丸腰も多く、家の神佛も捨置卑賤の者の如く周章騷ぎ
我先にと逸足を出し逃る事を主としたるは、いかにそや。故
に不始末の失火にて前代寳永にも聞ざる火災を天變に加ヘ、
萬民の苦心悲歎たとふるにものなし。火の用心は此時にあり
としるべし。又如此不心得より盜賊其隙をうかがひ重代の寳
器を失ふに至、實に可歎事ならずや。いかに大震なればとて
一先庭前後園に出、時宜を見合一同立除に極る時には其用意
調ふべきとおもはる。即時津波入り來るものにもあらず。尤
後世震の輕重によりて考合すべし。去冬の震には宅地を去ら
ず晝夜守護せしも有しとなり。又さして風なき時の火災なれ
ばあくまで防火すべき事なり。
○郭中並上市中に火事なきは震輕ゆへ火の元始末する間も有
つらん。幸甚といふべし。下市中は四方八面の出火にて火元
の數を知る者なし。素り不始末の失火なれども大震の變中な
れば何の御穿鑿もなかりしなり。下町は惣丸燒と傳ふべけれ
ども左にあらず。先火難なかりし町には南にて唐人町(上サンデンよ
り下ザコハ迄)廣岡町朝倉町は南輪(本御藏共)西にて掛川町要法寺町
境町八百屋丁、京町は燒たれども御町會所御藏共殘る庭前樹木悉く
殘る、外に下市中一草一木殘なし、燒ざる町にも高潮入し土地はことごとく枯る)東にて農人町(サエンは町境より
東松ケ崎迄)同裏町新町にては山田町筋銕砲町殘る。下知村も上な
る足輕町は畠等多く家もまばらにて燒通らざれば殘りたり。
實に元祿十一年以來の大火なり。
○廿代町は震ばかりにて火厄はなかりしに、山田町なる質屋
が藏に火入居て翌六日の朝内より燃出類燒す。神明宮の社人
某御内陣より御厨子を出し後なる堀川の船中に守護する中、
風烈しく吹出して御社も危かりしに鎭火の所念に大祓を繰返
し丹誠を抽ければ、忽風吹かわりて御宮をはじめ秋葉山の小
祠宮林の樹木(追々潮傷にて枯る)其東西の近隣迄恙なかりし。
夫より西へ兩輪燒通りしに櫻屋と云者有。他邦者をも雇いれ
て白砂糖製法する事を業とす。さるによりて大竈に焚火たゆ
る隙なければ防火の守護神に秋葉山の木札を薄き箱に納めて
仕成場所の柱に懸置けるが、其巳家は類燒せしにふしぎ成哉
右の箱外輪は焦たる儘にておのづから庭木の枝に留りて燒ざ
りしとかや。本宅にも此同札を勸請せしが彼が方の家藏にて
燒留り夫より兩輪とも恙なかりしと其西隣の某かたりぬ。
○凡市中の神社恙なし。第一朝倉町なる伊勢家(益太夫旅宿)
本社(萱葺)拜殿(枌家)なる上其町の北輪は類燒したるに火移
らず、又右神明宮松が崎稻荷社(震に繪馬堂は破損したり)下知
村樹下の社も烏有とはならざりし。○寺院は浦戸町にて眞宗
寺遍照寺長泉寺廿代にて安養院新町にて金剛院眞流寺類燒す
眞澄寺は震に潰れたれども燒ざりし。
再云、享和元年十二月晦日の回祿(細工町俵屋重平より出火)
には新町にて右の三ケ寺燒たり。又元祿十一年十月六日の
回祿(北奉公人町東一丁右かね屋權介より出火)には左の寺々燒
失したる事舊記に見えたり。御國初以來の大火なれば因に
加へおとろかし置なり。
五寳院(廿代)、安養院(蓮池町)、蓮乘院(同)、山泉寺(同)、
大善寺(同)、寳持院(廿代山田町)、大超寺(細工町)、專修寺
(浦戸町)、眞宗寺(同)、遍照寺(同)、長泉寺(同)、金剛院(朝
倉町)、常圓寺(弘岡町)、眞慶寺(新市町)、西念寺(同)、常福
寺(同)、善法寺(材木町)、眞光寺(紺屋町)、眞龍寺(菜園場)、
眞澄寺(新町)以上二十ケ寺燒失。
再云、右寺々類燒後下知村を寺地に被仰付。今の中堤より
西に閣し由。(今も土中より五輪石或は石塔など出るは寺地故なり)其後年曆を經御詮
議替しにや今のごとく寺町幷諸所へ轉地せしなり。故に今
も下知に屋敷を持たる寺々多しとかや。
○橋は上に記せしごとく六ケ所燒失したり。享和には一ケ所
も燒ざりしとおぼゆ。(回祿の日は大西風にて反故共は赤岡より東へ飛 又明り障子一枚隣家の庭木の梢に懸
り居り候を見たるほどの大風なれば、橋上に飛火留まる間なく吹拂ひしゆへなるべし)元祿には燒失したる
橋左の如く舊記に見えたり。
境町橋、藏丁橋、美濃屋橋、播磨屋橋、しもく橋二つ、菜
園場橋、新市町東橋、納屋堀橋、新町橋、新橋、以上十一
ケ所、
因に、按に藏丁橋は幡多倉橋の事か。此橋北の詰より西へ
南輪は幡多郡中村の御藏ありし由。橋の南詰には今に幡多
倉と號する役所も有なり。又本御藏は種崎町廣小路に在し
を稱名寺萬治三年燒失の後寛文三年今の地へ移され、其寺
跡へ本御藏を移されしかば、旁東種崎町を藏丁といひし成
へし。美濃屋橋は今の使者屋橋の事なり。御使者家は爾來
は御町方役所なり。根元は美濃屋忠左衞門が宅なりしを代
地を給はり差上しとなり。しもく橋二つは材木町橋の事と
そ。東に南北川流れ西は紺屋町まで掘詰て撞木のことなれ
ばかく名付しと古老の説なり。新町橋は蓮池町東の橋か、
新橋は刎橋の事か今しれかたし。凡家中境の橋は悉く土橋
にて有しと云。されば燒亡の愁なくして要害にはよからん
予が幼年の頃迄紺屋町西堀詰の橋中島丁金子橋など土橋に
て有しを現に覺えたり。それゆへ紺屋町西一丁目をば町の
名を土橋と云。今高智市中に土橋の殘れるは北奉公人町よ
り井口へ渡る橋のみなり。昔の質朴を見るべし。此橋は根
元勸化をして掛たれば勸進橋と云とそ。
○船の燒失の員數、種崎町にて大艜九艘、中艜二艘、大屋形
二艘、中屋形三艘、小屋形五艘、上荷船一艘、小船二拾七艘
菜圓場にて大艜五艘、中艜一艘、大屋形二艘、小屋形七艘、
丸艗四艘、小船貳拾八艘、〆九拾五艘。
再云、此外自船燒失の數しれがたし。(但東西浦の流失の船數
是又同斷なり、)
○菜園場橫町北の小川端に紺屋又吾といふ者有。かれが家の
み震にも潰れず火にも殘れるは珍らしとて其狀を聞くに、一
年天滿宮の葺替ありし時其古枌をもらひ受て葺たりとも云ふ
又此家には祖先の掟にて年々の太神宮を集置、俵に納めて何
俵も屋根裏に釣有よし。此等の加護にやあらんと聞しに、又
一説には御祓の話は此度の事にはあらで去る己酉の年農人町
類燒したりし時(火元は東種崎町なり)東にて家數少々殘りし内
に百姓の銕平と云者有、此家の事にて有し由。巷談まちまち
なりしかども其穿鑿は益なければ聞しまゝ記しぬ。
再云、御祓の事はいよいよ銕平が家の事。古枌は又吾が家
の事に相違なく、又此橫町家數百三十五軒の内又吾の家の
み殘り餘は殘らず類燒したりしとかや。頃日予の筆記する
事を聞傳へたりとて或者態々聞糺呉たりとて告來りたれば
其志も捨がたくて書加へ置なり。
○山田町廣小路なる御公札場(瓦葺)は震に潰れ且燒失もせし
に日ならず建替くれけるが、納屋堀の御制札(板葺)も類燒せ
しに今十二月迄御建替もなし。按に近年川々淺せて他邦の大
船はものか船々此堀に着る事不叶故にや。文政十一子年堀を
埋られ兩輪を街と被成しより(此時橋も退轉して今橋臺石双方に
殘る)左に出す御制札は不用となりし哉今に御仕替の御沙汰
もなし。然に此御札面には古格の事ありて床しくかねて寫し
置つれば後世に傳まほしく左に加へ置なり。
定 なや堀
一、いわし舟並なまいわし此堀に着べき事。
一、萬鹽魚並干うを右同前事。
一、鹽潮江の者なる儀は格別其外何れの濱より舟にて來候と
もなや堀へ着賣買可仕事。
一、他國より乘船如何樣の賣物積來又は米大豆いつれによら
ず賣買に來る船可相着事。
一、御城廻其外町中持賣は可爲如前々事幷御小人町可爲如前
々事。
右先規の定に候條違背仕間敷ものなり。
寛文三年十月二日
再云、右月日の下に元祿九年迄は安田彌市右衞門松田五
郞兵衞安藤彌兵衞と云三名を記されし由舊記に見へたり
はた寛文三年の頃潮江鹽屋崎にて鹽を焚持賣せし事見え
又御小人町と有は上市中の惣名にて其内に今も南奉公人
町北奉公人町といふ名の有も其由緣なりとかや。寛文三
年は百九十三年のむかしなり。
○山田町に油屋有、名を治平と云、震の時潰れて燒たり。然
るに今年正月の末に其藏の燒土を取拂ひけるに、不思議なる
哉土中に火氣ありて[燠|をき]數多出たり。いかにといふに綿實入た
る俵を積置しが、其實燒たる上に土落重り蒸燒になりたれば
七十餘ケ日も火消えざりしとなり。此實の火を保つ事かくの
ごとし。
○浦戸町長泉寺門前土手の上に古松一本有しが燒たり。此町
は文政七年迄は南輪計にて北輪は芝生の土手にて石切丁まで
並松有しなり。仍て今に片町と云。今此事を壯士に語れば誠
としがたきを右の古松は其内の一本なりと證となしたるに殘
をしき事なり。又今の材木町東橫町は蓮池町の橋迄東片輪は
土手にて是も並松有しに、享和元年の火に燒失せ、土手をば
追々開かれて今のごとくに成りたりしなり。木屋ともは山田
後免の者が願によりて此地に移り來りしなり。七十年のむか
しをおもひ出せば世の變革も如此なれば因に記し置なり。
○御國にて三度の大火と云傳へしは元祿十一年の回祿(再云、
元祿の火元は北奉公人町佐藤甚左衞門貸家古金屋權右衞門なりと古
記に見ゆ)にて家數千九百三十三軒燒たり、第二には享保十二
年二月朔日の回祿(火本は越前町伊野部丈助)には家數千八百三
軒燒たり。第三には同二日の回祿(火本右丈助南隣鄕辰三郞)に
は家數千三百四軒たり(兩日共指火にて罪人は追て長繩手にて火
罪上獄門に處せらる、)。右三度も火災計なれば土藏は殘りしも
有べきに、去冬は塗籠も堅固なるほど震潰し土瓦は地に落裸
藏となり或半潰ありても傾て土扉合されば、市井の家庫塗籠
一宇も殘らず烏有となりて市中の重器武具文具七珍萬寳灰燼
となりたるは數べし。
再云、今も右に出せる享保十二未年の回祿をお城燒と云。
御系圖に云、享保十二未年二月朔日より二日御城下大火御
城燒失、同十四酉年御城御普請、寛保二戌年二ノ御丸御作
事、延享二丑年御移徙、御本丸は寛延二巳年御移徙、三ノ
御丸は寳曆三酉年御移徙なりと有。
○火後市中の燒失家又は潰れても不燒家等町役の者が改め書
記して歸りしとぞ。追て御町方より燒失家壹軒へは錢八拾匁
づゝ、潰家壹軒へは同四拾匁づゝ御介補として被遣し、又火
事中御火消方立合せは震中にて整はざりしにや防火の御仕拼
○マヽはなかりしに、一己一己の寸志にて大に働らき拔群奇特
なりし者どもは追々御聞糺しの上御町方へ御呼出し御褒賞の
上銘々へ御銀被成遣一同有かたく少は愁眉をひらきしとな
り。
高潮の部
○去十一月五日大震後の高潮浦戸より内、地潮より三尺四五
寸高かりしと云。同六日下地村北の丸堤切れ新町へ押入、滿
潮の時は船を乘る(家々屋敷に入潮高下ありて淺深は記しかたし、
尤差引ありて十二月五日迄のまへ入來るなり)、同十六日潮高し、
同廿五日前日より波立風雨雷鳴して潮猶々高く新町東は座上
に上る。西は床限(予の宅地はいさゝか高ければ床より五寸計低
し。肉身の者舟にて江の口より家族共連れに來れとも網舟門戸に支い
て内に入らず外輪の深さ何尺かあらんしらず。滿たる時塀は腰を拂
ふといへ共漸々に引汐と成りぬ。)下地村中堤より東は座上より
五六尺上る、或は軒を拂ふ。同月末方より切戸御普請ありて
十二月五日より新町に潮差引入來る事はおのづから止みたり
しなり。今四月十八日子の上刻中震ありて夜中より雨降る。
十九日朝より風雨と成潮至て高く菜園場橫町西の堤を打越
す。惣出して土俵を以堰留る。又牛之助堤を打越し農家に入
御別莊大隅樣御立除と拜承す。終日の風雨吹込にて南川洪水
尤川下潮高く押入ゆへ水引とらずして上へこたへ築屋敷の地
底を北へ吹出し南奉公人町東は往來留る家々水上りすと云。
下町にては九反田東より潮洪水ともども溢入船を乘る巳屋住
居は座上より一二尺もあがると云。本御藏の庭海となる、(今
の御米藏は稱名寺の寺跡なり。此寺萬治三年燒失して寛文三年潮江今
の地に移す。其むかしは農人町の堀川はなく三つ頭より御作事方南堤
添を通り雜喉場越戸の内より北にながれ稱名寺へは高き反り橋掛り
しとなり。仍て九反田は川筋を埋たる跡なれば窪所成る事此度おもひ
合せしなり。)、六月朔日二日三日潮高く同十六日十七日同斷七
月十二日十三日波立、夜半より雨降十四日より風雨と成潮去。
今の内一番高く三つ頭御番所前潮江川の棒堤度々の高潮に切
れ居候ゆへ、此日の洪水も川尻より潮押入來るによりて引取
事不叶して切口より右九反田のごとくに洪水も逆に内川へ押
込、潮高く大震の日より二尺高く、平和の潮より都合五尺四五
寸(海邊は七尺)高かりしと云。(再云、三つ頭御番所より東稻
荷宮迄の並松九十本の内三十三本潮揚にて枯木と成。惜むべ
し。又云、丁巳七月廿九日の風雨に倒れ木多く今四十本計存
在す)自然菜園場前町へ上り農人町は堤越戸の所打越、兩町
共船にて往來す。新町も西堤越戸或は橋臺より打越土俵にて
防ぐ。弘岡町朝倉町納屋堀浦戸町東よりのまへ込眞宗寺門前
の邊又は西橫丁より北浦戸町船を乘る。本御藏地形九反田は
水底と成る。材木町紺屋町新市町蓮池町山田町は東半丁計上
る。刎橋より西廿代半迄船を乘る。南は潮江西窪(少將樣御釣
御殿近年御建立にて番人共家族引にて勤しなり。高潮は御殿小枌棟を
拂ひ水底となる。當時定潮となりしゆへ御毀になりしに柱をはじめ天
井までも牡蠣はみ付たりと云。)新田役前竹島堤數ケ所切れ在所
一而海と成る。鹽屋崎高見竹島西孕潮は山根迄(宇津往來は清
水庵より山通りなり)北は陽貴山前堤一宮沖の堤所々切れ牛之
助堤切潮押入(御別莊大隅樣本御屋敷へ御立除と拜承、丙辰二月廿
五日御別莊へ御歸座なり)比島は山根迄入(神明宮馬場の松悉く枯
しなり)江の口は田丁に入愛宕町にも入筋野一宮泰泉寺は田
丁に入下知(此夏は堤きれざるゆへ新町へは潮いらず)同所の内金
田並彌右衞門寺地の堤所々切る。東は絶島葛島の大堤又々切
(大變の日の高潮に切れ御普請有しに再破損なり)家頭大島葛島新
木高須の田家軒を拂ふ。潮は山根迄(中道往來は葛島の山より油
屋潮田の堤通り新木高須の山を通り高須より鹿兒迄船渡しなり)鹿
兒蒲島も同斷介良は在所迄下田衣笠は山根迄八助堤切れ潮は
山根迄、下田川橋流る。北にては砂地(家數九軒候所)亡所の
ごとし。丹七潮田並佐右衞門堤所々切れ南にては吸江人家坪
まで入、御亭御成道打越築立の切岸地形まで上る。五臺山は
山根迄(下道往來は山通りなり)。上件のごとく寳永四亥年より
百四十八年の後の大災にて四民の内にも農夫は産業に放れ桑
田は海と變じ牛馬を飼ふ眞草だになく、さればとて他所は叶
はず、飢寒苦心の中に空敷月日を送り時節を待こそ不便なれ。
再云、一日某の山上にのぼりて眺望せしに、大津鹿兒ま
で一般の滄海と成たるを見れば、延長八年十二月二十七日
貫之ぬしの此鹿兒より浦戸をさして船出せられし事目前に
浮み、九百餘年のむかしをおもひたりき。
○郭中は東堀詰より潮押入大手筋上は九御會所角限、尤此御
會所東橫丁より北は至て低く船にて往來す。内江の口與力町
永國寺丁迄外輪漕ゆく櫓聲を初て聞たりといふ。大川端七軒
町東新築共堀川一面の海と成、本町は西へ一丁半程上る。溝
は蛤丁まで上る。帶屋町中島丁南與力町片町潮は北御會所角
より南見通し限、扨又南川は御旅所の西迄、北川は常通寺橋
迄、久萬川は將監殿橋迄、布師田川は橋の上迄、大津川は關
迄、下田川は衣笠迄のまへ込出高潮にて七月十四日十五日兩
日山田橋より石淵までの大還往來留る。大震以來度々の高潮
に帶屋町東一丁の内にて投網にて小鰡を取、懸川町西輪の裏
境町浦戸川邊にて飯粒にて小鰡を釣る。田淵前の田の中にて
も同斷。下地田淵は小川にて持網にて小鰡を取。又惣て堤切
口より潮田へ海魚いろいろ入來る。大島の丸山といふ所にて
小鯛糸寄を取、其他諸所にて王余魚鰭赤鱸の子鯒などを取、
夏の頃は數日車海老を取。其取樣は夜に入り篝火を照らし其
影に寄り來るをすかしみて救玉にて取、又投網にても取。終
夜とれば一斗も取しと聞ぬ。次第次第に篝火多く遠見すれば
祭禮の夜の烑燈のごとく珍らしかりし。一宮より鳥付より流
れ出したる川上にて松魚を取しと聞。秋より冬へ入大なる砂
魚を釣る(長五六寸)。一人にて何百といふ數をしらず。堤御
普請有し切戸の内に鰡落集る事おびたゞし。釣人工夫して釣
針を集め鰡を懸る事をはじめたるに是又一人が懸上る事何百
を以數ふ。此節は晝夜の差別なく懸取事前代未聞珍らしき事
なり。かゝる天數の世に生れ合たれども禍を免れ殊に稀なる
齡まで長らへし冥加に古風軒の閑室に筆を取、老駑の繰言な
がら末世の話の種にもなれかしと益にもならぬ事共をも記せ
しは孫らが爲にせし事ぞよ。
○今度の高潮に女童等驚たれども寳永に比すれば至て低し。
左の舊記を見て知るべし。又震の分量はしられざるものなれ
共、潮につゞくものと聞は寳永は震の強かりし事是又しらる
るなり。
再云、左に參考する舊記は悉く寳永の變記なり。
○谷陵記(奧宮正明筆記)に云、津浪晝夜十一度打來るな
り。潮北は一宮仁王門まで、南は雪蹊寺の院内迄。
○南路志(武藤致和撰)に云、高智新町商人町半分より東
は悉く潮入、(實云、今の新町にはあらで新市町蓮池町迄の事
か)御侍町も堀部七太夫殿藏人殿あたり迄潮のまへ、大道
乳のひつはりへ迄海に成、尤廿日頃より潮間には大道を
通る事有。
○聞出文盲(中島重右衞門筆記)に云、高智地形より二丈も
潮高き程なり。大御門前迄海の樣に成る。
○秋暮獨覽集(仙石爲範筆記)に云、四日以後十一月十七日
迄大潮小潮とも干滿なし。新町分は住宅床の上一間或は
九尺計潮いかり西の橫堀限東方へ艜船にのりて往來す。
侍屋敷へも東より西へ二三丁の内滿潮の時は土俵を以潮
留す。新町住居の人は我が家を捨て西方諸方に借宅す。
○某家藏(願書控)に云、私共儀農人町の内菜園場町端に
住居仕候。然に去々年大變以後去夏迄は大潮床の上迄上
り住居不罷成他所へ小屋懸或借宅仕候。其後鹽留堤御普
請被仰付候に付住家へ安座は仕候得共、去年中當春迄居
屋敷に草も生立不申候。(有故下略)(三橋藤助永畝武助田内
喜兵衞久保勘右衞門池九太夫寶永六丑年六月と有)
○儒臣宮地日記に云、日數經ても尚潮同所差込都て下町
は家の内に不被居寄々上町へ引退、數日の間大船小舟潰
家死骸諸道具所々山端へ流寄事夥し。
○柏井難行錄に云、忽津波溢來る。其聲雷霆の地に落る
ごとく、是東北池十市の海畔より津波溢れ來る音也。須
臾の間に頭上をひたし、人皆沈溺す。(實云、此筆記は種崎
浦住居の時の書なり。)
○萬變記(一名弘列筆記澤田十四郞隨筆)に云、御城下廻り
堤殘らず打こへ押切西は上高坂井口、北は萬々、久萬秦
泉寺薊野一宮布師田、東は介良大津の山根迄一面の海と
成る。命つたなき者引潮にゆられ或は五臺山吸江筋野秦
泉寺の磯に上るも有。此頃大川筋帶屋町一丁の内投網或
はすくひ網にて海魚數多取しなり。又愛宕山の麓にては
鯖鱸王餘魚など夥しくとる。
○丁亥變記(津野山鄕長山丹次筆記)に云、〓の上刻より大
潮溢れ入、人家悉く流れ、死人桴を組がごとし。晝夜潮
入來る事明る五日の曉迄十二度なり。
○羽根浦八幡宮板の書付に云、未刻俄に磯より沖へ三丁
餘も潮干其大潮入、家の財寳悉く流失、不逹者成者或は
山遠き者は殘らず大潮に被引取死。
○志和浦竹村孫平が筆記に云、良暫く經て大海汀の波そ
びへ立て津浦に打入、人家の財寳悉く浪中に沈、貴賤男
女に限らず波に漂て苦しむ多し。
○神谷莊屋家記に云、前代未聞の大地震御國中浦々殘ら
ず大潮入。
○予が家の傳説に、寳永の津浪松が崎を打越し、巴堤を押切
新町へ溢入。其勢ひに三つ頭に積たる材木又は何間か有宍兩
なと何百本となく押込散亂す。たまたま大震に殘り半潰の家
藏も、是が爲に打亂され微塵に成て流失したれば、新町は樹
木の外殘る物なく、滿々たる海原となりたりし由。今目前に
見るごとくおもひやらるゝなり。
再云、南路志にも巴堤を押切、下知新町悉く浪入破損すと
有。(實云、巴堤とは下知より三頭へ出る中堤を云。名の義
は三つの頭へ出る道なれば巴と云とぞ。又三つ頭と云にも
仔細の有由なれ共略す。)
追て云、三つ頭と云譯は昔の堀川は今の御藏の南より東に
流れ出、下にて潮江の川水と付合處又東よりは潮込入時に
は三つ頭戰ふ故に此名ありとの古老の傳説なり。昔は潮江
川も三つ頭へ流れ出て東への棒堤はなかりしとなり。
○凡高潮は大震すれば半刻を待ずして打入ものなり。今度の
震は申の中刻潮は酉の上刻に押入來りしなり。古證左のごと
し。
○谷陵記に云、寳永四年十月四日未の上刻大地震、同下
刻津波打て、寅の刻まで晝夜十一度打來るなり。
○萬變記に云、未の刻計(右同日なり)大地震ひ出、半時計
ありて沖より津波押入ると呼はり、間もなく跡より大浪
打入。
○南路志に云、地震止み(右同日なり)少の間ありて大浪
立。
○去冬大變前(十月朔日の頃なり)某二人船にて下地川尻へ夜釣
に出しに、ふしぎなるかな俄に潮引取、船居りていさゝかも
動す。暗夜なれどもすかし見れば四方干潟と成。葛島佐右衞
門へも陸はだしにて行るゝとおもはる。こは夢かと計驚て歸
らんとすれども詮方なく、夜もすがら潮を待所に、鷄鳴頃に
や少さし來るにまかせ船を出したるに、下知假橋のほとりに
て又居り、一人川に下り綱して引、辛ふじて市中に歸りしは
夜明にて有しと其人々語りぬ。是五日の震の徴ならん。いづ
れ震も潮も同一對のものといへば考據に成べきあかしならず
や。
再云、聞出文盲に云、元祿十六年癸未十一月廿二日當國所
々湊口潮滿干日數三日不定なり。一日の内に四五度も曲ふ。
諸人不審する所に東國大地震小田原の城崩安房上總へ津波
入死人夥し。皆人知るごとくなり。此事以後に聞ゆ。他國
の事なれども心得の爲に記すといふ事も見へたり。(實云、
此癸未より寶永丁亥は五年の後なれば其大震の兆にても有つらん
か。)
○今上件のごとく諸書を參考として見るに、潮は震の前後に
くるふ物成べけれども、市中の人は心付さるものならん。油
斷すべからざる事どもなり。又後世にても白鳳度のごとき大
震もあるべし。いかなる大船にても沈沒すべしとおもはる。
里俗傳へて云、上代大地震して津波溢入、東孕西孕の間打切
今のごとくなりしと云。白鳳にや年曆は傳へず。去冬も大震
すれば半刻をまたず高潮入來るといふ事をもしらで、南川原
に遁れ出で、さまざま不覺を取し事を聞ぬ。平常震學をも心
得置ぬべき事どもなり。
○井の尻浦の住御浦方浪人に山中久平と云老人有、隠居の後
は孫らを連て磯に遊ふ事常なるが、去十一月の初より日々潮
に狂出來たる事と、一天に雲なき事等を考合せて家内を初、
浦中へ近々の内大變あらん事を示して、家財共を運せ山に遁
れよと進むれとも、空なる事且運送の費もあれば浦人ともさ
まで信ぜざりし者も有。又此家には寳永津浪の事の委敷筆記
も有よしなれば、夫をも考合せて教る事ならんと信じて山居
せし者多かりしが、其者共久平一統は何一つ恙なかりしなり。
變後久平いふ樣は、かほど諸人の爲に成事慥に知りたらば御
浦方へ可申出ものをと後悔したるとなり。追加に書せる廣島
氏と同日の談なり。高岡郡破損縮書に井の尻に就、十六軒流
失十五軒潮漬り女二人流死と有。井の尻の者ならば登山はせ
ざりしと見へたり。俗に云所謂神佛に放されし者ならん。
○上々樣方津波御立除御用意として震後三つ頭へ御船倉より
赤塗大小早九反帆御船壹艘繫ぐ。船中平御船頭水主共都合二
十四五人、乘組右人數は濱より更代にて勤る。當夏以來は自
然震も間遠に成に付、高潮の愁もなく御人減に成、御船頭貳
人水主十人一晝夜代り合にて御船番勤るとなり。當十二月に
至ても同斷なり。並家中初下町は再來船持ぬ家にても、高潮
用意として市艇漁船上荷船艜丸艗網舟等堀川に繫く。川邊な
らぬ家には屋敷内に引入用意す。諸御屋鋪御家老中にも同斷
なるよしなれ共、所見なれば記しかたし。(此御船今の井流方
の傍に新に御船倉御建立にて丙辰正月廿日此御船倉に入なり。)
再云、大變後の高潮に助け船とて三浦より市艇漁船等來り
堀川に滯泊す。尤種崎町廣小路農人町邊よりは諸人を乘せ
吸江へ贈りし。又苫葺たる回船も入來り諸人を用捨なく乘
せ宿らしむ。(刎橋の橋臺にも一艘繫たるに男女五六十人程乘組
居りしと云。)地震も漸鎭るにまかせ八九日の程も滯船した
りし。(此船は農人町に來り居る上灘下灘の船にやとおもはる。)
比島橋の東にも大船一艘數日入來り居しを見たるよし人語
りぬ。是らも津波の用意にて有しなり。
○大震におそれ浦戸町堀川より南は殘らず唐人町川原に遁れ
出、障子から紙屛風幕などをもて川風を圍ひ安座す。東西よ
り遠見すれば四條五條の川凉を見るがごとく風流に有しとな
り。かゝる所に酉の上刻東に當り津浪打入來ると叫ふ間もな
く震動の音して潮高倉に成て溢れ入來るをみれば、見馴ざる
輕石など沫のごとく眞先に押入來り、おもひもよらず寢耳の
水なりと狼狽し、取物も取あへず又此所をも我先にと逃出る
に、夜には入、瞽女は手引を失ひ、乳母は小兒を捨、馬方が
放せし馬は刎廻り、上を下へと混雜する事、相撲の庭に崩る
ゝといへどもいかでか此騷動に及ばん。怪我人も有つらん命
からがら助かりしとなん。潮先は御旅所の西迄川一面に押入
追て引取しに、財寳刀劍は吸江孕の海底に沈み、簞笥長持は
波に與へしごとく引とられ、衣類調度は又引潮にゆられ、流
れては終に熊手に懸り淺ましかりし事共なり。此夜の大火に
吸江葛島孕邊までも白晝のごとく明り渡り、船にて流れ物を
拾ふに熊手にてより取にしたるとなり。中にも不便なりしは
朝倉町とかや、疫病にて大患なる爺を夜具に卷て川原に出し
置看病する中、宿元近く火災と成ぬれば足弱の者とも付置、家
内共は諸道具始末に歸りし跡にて高潮入來り、病者も波に漬
りし場合家族ら馳來り辛うじて其場の一命は助りしかども、
是より再寒して日ならず空敷なりしとなり。是等上にもいへ
るごとく不覺の第一番とおもはる。蒲團に寢ながら波にとら
れしと云觸らせしは癖言なりしとかや。
○新町の人のよし、家内に二人濕痺にや蹇となりて平臥す。
震の日は主人は他行跡にて嫁なる者姑の足痛を負ひ、少女な
る者は兄の病足を背負ひ、潰れ家の棟を傳ひ隣家の婦女共々
北の堤に遁れ出、山田橋に至りしに、群集の中にいと奇特な
る女ありて、津波來らは此橋も落申さん、いさ比しまへ御供
申さん、御老體をはわたくし負申さんといふ故、誰人にやと
問へ共しれる者にあらず、されども嫁も勞れたれば折幸と其
深切にまかせともども、比島に馳せ付しに、姑を卸すやいな
や又缺出さんとするゆへ、名前居所をもいろいろと尋ねけれ
ども、名の有者にあらずといひすてゝ、又もとの橋の近く走
り行ぬ、定めて諸人を助る志の人物にて有しならんと同道し
たる女子語りぬとぞ。我が家内もあらんをいかなる者ぞ尋ぬ
糺して公達し度隠德者なりけりと床しかりし。
○大震の後吸江の渡し舟に乘組種々の雜談を聞し中に一人
云、扨も濱改田へ津波打入し時、漁師が妻我が子を捨置、家
の子を背負山に逃げ夜を明しけるが、翌朝我が子をは夫が連
來り、四人とも恙なかりしは天の御助ならんとて評判のよし
を語る。おのれ打聞まゝに其者に問て云、家の子といへば其
妻は繼母にや又は家の子は片輪者なとにやと問返しければ、
其委敷事は承らずと云。又傍より一人云、それはいよいよ家
の子にて候。私承候は根元兄弟の者別家して子一人つゝ有
し、後兄嫁離別せられ、間もなく兄も病死して一人子計に成
たれば、弟も我か家を疊み兄の家に引移り、兄の子をともども
世話いたし居候由なれば、家の子とは申にて候と云ゆへ、い
かにも節婦にて天性の美顯れたりと、猶床敷委敷筆記せんと
おもひて、其夫が名子らが歳をも盡く尋ねたりしに、六ケ敷
や思ひけん又は深き思惟や有けん、此外には存知不申、下田
邊にて聞しまゝにて候。津浪は片山の在所まで打入しなとい
ひ紛らし、追々詞をも改ければ、返す詞もなく互に口をつぐ
みぬるば殘り多き事なり。其後も此美事を詳に記し置まほし
く耳を立けれども、高智よりは手遠く東行する輩も片ほとに
て詮方なければ、船中にて聞し儘を記すのみなりき。
再云、此話に能似たる烈女有しをおもひ出たり。近世畸人
傳と云書に、栗子は甲斐國山梨郡の農夫某が妻なり。舅姑
に孝ありて其名高し。然に舅姑夫も亡ぬる後に山拔といふ
事にあひ水におぼれ死す。其時屍を掘出して見れば十二に
なる養子を背に負、八つになりける實の子の手を引て有け
り。幼方をこそ背には負べきに長したるを負ひたるは、此
時に臨んで遁んと構ふるにも養子を重くするの義をおもふ
故成べし。女といひ邊鄙の産なり。何の學ぶ所も有ましき
に、天性の美女此は世に有がたきためし成べし。さるにお
もはさる災にかゝり死を能せざるは悲し。かゝはあれど此
災によりて其德ますますあらはるといふべきか。國人これ
がために碑を建て事實を記せりとなん。
○赤岡御役家詰德永千規(達助)が去冬の大變を記したる書に
云、須崎浦にてある漁師、家内一同小船に打乘りて海嘯の難
をのがれんとせしが、波に引とられ船くつかへりて殘らず沈
沒す。其中に十二歳計の男子一人浮上りける折ふし、大筒の
座板流れ來りければ、それに取付沖に出漂ひけるを夜須浦の
漁船に助られ、即夜須浦へ連婦りけるよし。ある人の話のま
まを記すと有。
再云、漂流者の助かりしも其産土神の恩賴なるべし。寳永
にも能似たる話有。左に寫入たるを見ておもひ合すべし。
丁亥變記に云、須崎浦八幡宮の神輿十月四日の大潮に流れ
失ぬ。然るに同八日伊豆の國下田浦の漁船沖合にて是を拾
ひ見れば神輿なり。疎にすべきにあらずとて假に社を建立
し新八幡と崇祭る。然に拾ひ得たる漁夫時の運を得けるに
や大漁せしかば、遠近の浦々神慮を尊み敬ふ。年經て當國
田野浦の賣船江戸へ渡海の折節、伊豆の下田御番所御改を
受に入津す。其砌此旨を聞彼社に行神輿の内なる書付を見
れば、土州高岡郡須崎浦八幡宮神輿と有。外に寄進施主の
姓名をも記したれば、是こそ疑所なしとて所の役人に子細
を訴、本國に迎歸らん事を願ければ、所の浦人とも是を惜
みけれども、器物とはちがひ神輿の事なれば、終に御聞届
仰付られ、神輿をば船に舁乘せ奉けり。扨田野浦の船東都
より歸帆の節、志和浦彌次右衞門船に行逢、須崎は近浦な
るにより神輿を賴みて差越す。下着しければ此旨を須崎へ
申來ければ、神職とも迎に來り請取奉る。今も八幡宮の
内殿に納め有しなり。神慮には珍らしき事も有ものなりと
有。
○久禮の浦人津波の時船にも乘遲れ五十人計十方を失ひ産土
神八幡宮を賴み社地に集る。(此社地は海濱にいさゝかの竹林あ
りて其中にありとそ)さして高き所にはあらざるが、溢來る潮
此所計はひきくて社地へは入らずして一人も恙なかりしと
ぞ。濱邊の家は悉流失しつるに不思議なる事なりとて、其社
地に集りし者の中に大工有しが、材木町に來り直にかたりし
となり。
○御疊瀨浦の漁師とも足摺山の鼻前に出漁して大濱の磯にて
津波にあひ、落入波に引込れて海底に至り、船底も巖石に當り
碎るとおぼゆ。其時は四方波の中にて山など見ゆるといふ事
なし。既に溺死とおもひしに再浮上られて命を拾ひしとそ。
上陸して其事を浦人に語りければ、其磯は海底まで八尋立所
なりといはれて、又々身の毛よだちしとなり。
○清水浦湊の奧に在たる鹽濱並鹽家共潮入て廢絶すとそ。年
來御國益に成かねたる御事なれば、御再興はおぼ束なしと其
浦役某かたりぬ。されば左に寫す御浦奉行の御趣意書も流出
しつらんとゆかしくて予の筆記中より抄出するなり。
是谷氏の自筆の物にて橫板に書額にして鹽家にかゝりしと惜
むべし。○中略
○以南の内中の濱に池道之助と云浦人有。平常隠德の志深く
親切奇特なる事少からずとかや。去冬の大變にあひて巳が墓
地(中濱より清水浦へ越す所の坂中にて往來人の目に觸る所)に高四
尺計の石碑を建て、左の俗文を一つ書に四方に彫廻し、後世
女童に至までも心得になれかしとの趣意にて、假名交りの不
文なる物なれども、其仁心感するに堪たれば、探りこととめ
て寫入置ぬ。
一嘉永七寅十一月五日大地震靜否浦々大潮入流家死人夥。
一大地震の時は火をけし家を出る事第一也。家にしかれ且
やけ死多し。
一前日より潮色にごり津浪入並に井の水にごり或干かれる
所も有り兼て心得べし。
一是時諸人の悲歎難盡言語仍而爲後世謹建之。
于時安政三年甲卯三月
幡多郡以南中濱浦 池道之助清〓
再云、阿州鞆浦に立岩とて高壹丈計の巖有。其面に彫刻し
たる大變の記事の寫を甲浦眞乘寺より潮江傳照寺に贈り來
れるを見れば、右道之助と同趣意のものなれども、是又俗
文且傳寫の誤も多かるべく文意も不分明なれども、慶長よ
り變の度ことに記しぬるも奇特におもひ、一字も違へず其
儘左に加入す。
敬白右意趣者人皇百十代御宇慶長九甲辰年十二月十六日
亥刻於常月白凮寒凝行步時分大海三度鳴。人々巨驚拱手
處逆浪頻起其高十丈來七度名大潮剩男女沈千尋底百餘人
爲後代言傳奉與之各平等利益者必也
又
寳永四年丁亥之冬十月四日未時地大震乍海潮湧出丈餘蕩
々襄陵反覆三次而止然我浦無一人死者可謂幸矣後之遭大
變者豫慮海潮之變而避焉則可也
○浦戸稻荷坂建石彫刻の文。
安政元寅十一月五日大地震津波後世人大地しん有時は津浪入
と心得べし。
大黑屋嘉七郞建之
再云、右石根元此稻荷宮の石の鳥居なりしが、大變に倒れ
敗物と成たるを、申請てかく造營したりしとかや。いかに
も奇特成事ならずや。
○[尾井|もみぬきゐ]の事
新町の土地、上にもいへるごとく根元潮田ゆへ清泉の井水な
く、西井手の流れは大川端關の南より廿代町を通じ、新町菜
園場農人町の用水と成(元祿十二年の御制札建左に寫し入たるを
見るべし)。夫より下知兩丸の良田に懸る。然に此水許にて霜
雨の頃又は風雨の節濁て飮水にならずして、至て水乏敷町柄
にて、火災の用心もあしゝとて、旁寛政十二年馬詰權之助と
云御町奉行此子細を上聞に達し、江州の水工四人(再云、水工
四人が名、和助、清六、與八、六彌といふ者どもなりとおもひ出した
ればしるし置くなり)を御雇入にて尾井を始らる。一に櫻井二
に紺屋町三に種崎町廣小路西の井其外段々と御町方御手先に
て掘らせられ、御國者も自然見習、江州の水工は二年を經て
歸國す、仍て此井宅地にほらんと思者は、願出れば御町銀御
貸付被仰付年賦拂に御取立ありしなり。さるによりて年々歳
々に掘らせ、今新町に何百といふ數をしらず。然るに去大震
にも潰れず、數十日潮は下知切戸より押入、用水難澁の處尾
井の水絶る事なくして去今の飢を忘れたり。是馬詰氏の遠慮
にて實に功業莫大といふべし。寳永の變後祖先逹の苦心おも
ひやられしなり。○中略
三災錄卷上 畢○中略
○上卷巷談拾遺
甲殿の海岸靈地に鎭まりまします住吉明神の御神德は申もな
かなかおろかなる御事ながら、去冬の大變敷地の者ともは誰
いふとはなけれども、神託にや兼てより沙汰しけるとなり。
扨十一月五日大震後の高潮最初は程能打入、間もなく引取、
川も入江も暫く干瀉と成たれば、其隙に老劫の足弱までも殘
らず山岳に登り、怪我過せし者一人もなかりしとなり。御社
の西のホケと云所にいさゝか人家有。尤此所は至て低き海邊
なれば、漁師ども家財をも打捨、山上に遁れ見渡す處、南海
よりは山のごとき高波打來る事あまたゝびなるに、ふしぎな
るかな御社の沖にいたれば、忽東西に分れ此ホケの窪所も恙
なかりしとなり、又奇瑞なる事は御社内御内陣の扉には平日
錠を差堅めしにおのつから開て有しを、鍵取長吉といふ者見
付奉りて竊に氏子ともには語り傳へ、いよいよ靈威を崇敬せ
しと。本編清書の後其里人に聞所なり。將又傳へ聞く、恐な
がら少將君にも此御神をいたく御信仰被遊て、今年立杉の御
花壇の地に新に御社を建させられ、神職どもを彼地に遣はさ
れ御勸請遊ばされ御屋敷におゐて御祭禮御賑々敷御執行有、
御近習の面々御陸に至まで御庭通來拜被仰付しとなり。返す
返すもかく思召立せられし御事はまさしく其御故よしこそ有
つらめと察し奉り、拜承のまゝ恐れみ恐れみしるし奉りぬ。
あなかしこ。