[未校訂]本文記錄者たる故利岡清左衞門氏は高知市の西南十餘里土佐灣に
臨む上の加江村の人である。安政元年十一月五日會々同村より高
知への道にある須崎町にあつて大震に遭遇し、船便を得ずして陸
路帰鄕し震災の後片づけをした。本書は此間の地震に關する消息
の覺え書である。
抑嘉永七寅年安政元改曆霜月四日朝五つ時(此時地震致し候得共少細なる事)須崎浦例の相
撲執行に付き段々船にて見物人參る處、我今秋ふと痛風と云
ふ病を養ひ多野鄕の醫師生野某の調合藥にて本復を遂げ、右
謝禮の爲め便船致し、友輩に紛れ相撲見物に時を移し、生野
へ失念になり、翌五日五つ時彼の地へ禮に參り、宮尾へ歸船
便の世話を相求め度存じ候内、久禮浦番喜與作政屋克ノ丞其
餘夥しき客になり、九つ相終り徒然に移り、亦々橋本屋松次
郞宅へ參り、久禮番頭逢客とて宮尾の慶益老を始め政屋勝ノ
丞と我と都合五六人酒宴に時をうつし、七つの中刻大地震致
し、漸く町へ遁げ出し、右往左追に紛れ狂氣半亂の折柄、本
家若松屋甥幸右衞門久禮番喜與作に行き逢ひ迯げ支度舟を待
合せ候處へ、矢井賀浦勝之助と申す男參り合せ、片時も迯げ
候はんと數百人の中を四人手を引き池の内の山の奧へ登る。
折柄早須崎の湊へ津浪入り、古倉より原の邊又は土崎邊の家
數百軒流れ行くを遠見致し、殊に嶮岨なる峯每々の震に心を
惱め、逗留の兄弟妻子を氣遣ひ、其の夜彼の山中にて憶ひ惱
む事命も縮まるなり。夜中震數減ぜず、折々大震あり、さて翌
六日曉四人評議の上一旦歸浦せしめ度き思慮に基き、其の邊
に居合せの者へ委細に須崎への便宜を致して置き、下分支配
の人家へ下り着き飢を凌き度き段沙汰致し候へば、老母哀れ
を添へ芋などを出しぬるき茶にて咽をうるをはし、はだしの
者は古き草履をもらひ、上分支配の下鄕と申す處へ渡老源次
郞と申す者の方にて近隣の百姓相集り俄に汁を焚き暖き飯に
て腹を養ひ調へ、誠に嶮岨なる燒山の細道を越へ、阿波村の
奧へ下り本村へ出し處、此地も段々流家あり、現に庄屋八助
宅餘程傷みと相成、未だ村人も道具を持などして迯げ形なり
八助も是を制すといえども矢張震止まず、殊に潮の狂ある故
一同肝を消し恐るゝこと生きた心地はせざりけり。右庄屋八
助に大變の愁禮終り、燒坂を登る内も度々鳴動あり。嶮岨な
る所は山崩れ又は峠より西平道大に割れなど多し。其邊を步
行致す内誠に氣味惡しく、それより久禮の町入口へ參り候得
共、家に一人も居ず山へ逃げ登り或は常賢寺にも寺地に一ぱ
いの人、我等も例の浦通往還は洲になり或は山崩れありて往
來相調ひ難く、道の川谷傍美々須山の麓より大坂谷に入込み
山を越え本川の奧へ入込み高き燒山を越え、笹場鄕へ折込み
笹場鄕の定吉と申す者の方にて暖き芋或は茶漬飯をもらい勢
力を勵まし、押岡の奧に折込み毘沙門天の社前に住居致す貞
平と申す百姓の宅へ聲をかけ候得ども人音なし。其の時の道
連志和村庄屋喜藏人足銀之助若松屋幸右衞門都合四人、誠に
物淋しく押岡の邑道を通り候折柄、此村の女古き風呂敷包或
は煮しめの樣なる袋を提げ二三人、眞に看る山谷より山汐出
來ると申して燒山の方へ迯る體にて、何を尋ね候ても答もな
く走り入、川内川を見合候處に彼の川餘程奧まで汐滿ち込み
深谷山々渡り付樣も叶はず、北がわの山の際を通り押岡鄕に
入込み、此道筋谷間にて此節干水なりし彼の震より少し薄白
く水澤山に出水にて谷鳴出し候。此體故村人共燒山へ迯ぐる
も尤と一同感淚を催しけり。押岡鄕へ出候處此邊りに押岡の
男女夥しく居合、道を尋ね上ノ加江の樣子を問ければ、浦は
一軒も殘なく流れ御米藏一軒のみにて嘸御自分方不自由致し
申さむと哀を傍ふ。安乳母と申す坂を越え浦の體又は大川内
上ノ平邊の人家一軒も殘なく流れ散々なり。居合の者に家内
の居所を尋ねければ、小濱の奧へ遁け行き貞平と申す福裕な
る百姓の宅に居る由承り、彼の地へ參る内も見る人々皆落人
とも何とも申方なき不便なる事實に心も消え世の末は今なる
哉と心を惱ます内も震て止まず、折々大震あり、海底大にド
ヲ〳〵と鳴り恐しきこと限りなく、田代之口にて兄西村屋彌
五良殿挑灯を提げ我等須崎にて死すならむと兄弟親類歎き絶
へず、餘り哀れに付我樣子を聞くべしと挑灯用意にて出けり
片時も小濱に參り一同を悦こばすべしとあるに力を增し、顏
も振らず彼地へ參り一同に眞看祝言を盡す。其時浦の大庄屋
岡村廣藏同代同苗貫藏家内七人下男下女とも都合九人是も彼
宅へ迯げ行き、晝夜幾度の地震に家内小兒恐るゝ故、貞平屋
敷の明田へ板を敷き四方へ莚を風凌ぎに張り焚火に寒風を凌
ぎ居る處へ一寸挨拶に參り見るに、水主共も數人妻子を連れ
明田一面に彼の如く莚を張り火を焚く。誠に我れ人恐ろしく
互に内へ這入り外に居る。現に六日の夜のことなるが折々大
震にて走るもあり飛び出すものども障子を破り、夜の明くる
を待兼寢入るもの一人もなく、翌七日(忘れたり)此時分一役
薊野に居舘北原喜平次と申す人なるが同宿成され候。右七日
御分一流失の道具或は諸人即餓怪我人等改めさせ、北原岡邑
我等出張致し衣笠山の邊影整田面出邊を見分致し候處、御借
藏流失に付百七拾石祿の納米流失、故に彼地の澤田へ夥しく
流れ集り、其餘着用類長持簞笥越の谷下り附の邊へ流れ集る
諸人立廻り意早き者は家内互に拾ひ揚る體なり。此日七つ時
大震にて數人俄かに迯げ出し、我等も一同亦小濱の如く迯げ
歸り、此日も震は度々に候得共、彼の如く折々大震あるとき
は氣味惡しきことなり。さて往古より御城下の者御町方御支
配浦々は御浦奉行御備にて、御浦方相立鄕分は御郡奉行所御
備御山方其餘御支配支配の御奉行所御備有之處、當嘉永七甲
寅は安政元となる當春御趣向に付、六郡御取別に相成り、高
岡郡御郡舘須崎糺に相成り、即ち、御郡御浦御山御普請方御
譜族にて此時御郡奉行所阪井堅吾殿同千屋衞守殿御兩頭なり
前御支配御備更之節御郡先遣御浦先遣其餘御支配支配の下役
を右の如く御先遣所と號し有りしを、此度の郡々御取別より
御郡下役と號して浦名無し御一緣に相成る。此時の御下役森
田良太郞殿なり。さて右大變後晝夜地震止まず、殊に海面大
潮前よりの潮に較ぶるに四五尺も高き故、地の人一同浦へ出
張る者之れ無く、上ノ加江浦の絶へるは今なる哉と衆人大に
愁ふ折柄、御郡奉行所阪井堅吾殿下役場兼治御吟味役川口達
藏殿隨勤成され御郡中御廻見成させられ、當一番の傷みに付
急御普請仰付らるとなり。浦人一同出浦致候樣作配方仕候樣
仰付られ、仁井田鄕村々庄屋へ御申付仰付られ、家每に藁繩
莚持木材は流寄の品々を拾ひ、不足の分道之瀨御留山にて立
木を仰付られ、右の作配方に藁〓莚を霜月十四五日より參出
候に付受取らせ、大庄屋を始め我等組頭迄寺地へ相詰る。御
分一所は流失散亂米手八方に鄕人を召し使ひ右七日より御分
一所御作配にて地下人即餓御救とあり。一人に付一日米三合
宛を以て日數二十日分六升之流散濡米二三度に御渡仰せられ
此形御郡奉行へ達に相成候處、地下人飢に及ばざる樣作配御
賞成させられ候。我等同八日に土居の兼平と申者の方に借宅
致し、大庄屋御分一所同出に鹽道の岡屋敷喜平宅に御同居、
每日彼の地より上ノ關之方を渡り(川深く洲の如し)面出を通
り寺山越にて浦へ出で小家を建てさす。作配に打掛居る處十
五日より大塞を催し大風吹き出し大雪になる。十六日は往來
止近來の大雪なり、晝夜震止まず、恐しき内にも段々己が家
出來我等も己が家に始めて居る折柄、同廿五日の夜暮間頃よ
り沖より風強く吹き出し、夜五つ時より大しけとなる。夜明
まで大に雷鳴致し、此雷久禮えあまり家一軒燒失あり。此夜
浦々己が家に居る者又々流ると申して闇夜に山へ逃げ、朝ま
で雨に打たるゝもの多し。翌廿六日もしけにて汐高く上に高
水になり、流れ殘りの船を川邊に繼ぎ居候處、此の高水に流
れ出傷もあり、湊にて讃岐屋鹿藏所持の市艇壹艘破船となる。
時節ならざる風雨冷雪も天地陰陽の變なりと感じ恐ろしき事
也。右大變に御城下下町大燒にて崩家に打たれ火に取り切ら
れ迯げ方もなく色々の死人數を知らず。須崎流死三拾餘人、
久禮鄕浦にて五人、上ノ加江浦流死無し。素より怪我人もな
し。南鄕に一人馬壹疋、志和浦に船にて迯げ候者船へ乘り移
る時赤子海中へ取落し死す。鈴浦に二人山の崩に敷かれ、其
津に頗る大津江(波か)にて往々(イテムト有)彼の大しけの浪に
洗ひ流れしものならんとの説あり。其餘諸方に死人ありと聞
く。中村大燒爰も七拾人程死人ありと聞く。下田浦流出無く
崩家に打たれ死人夥しくあり。此度の變に東西に死人數知れ
ず。誠に當浦斯かる大變に一軒も殘らず流失致し候に一人も
流死無きは氏神廣野宮の加護なりと地中一同拜念し奉るなり
當時廣野宮一社御米藏一軒殘る。さて其後も度々大雨高水あ
り、其度々心を傷むるなり。總て諸人心細くなる故、少し大
震あるときは又大汐入來るとて纔かなる荷物を持ち鄕へ迯げ
山へ上り、日每に騷がしきことなり。然れども人氣を勵まし
又生業に基いて極月廿五日例の御借付地入用、漁飯米相持候
得共御上も騷ぎに取紛れ御賦狀參らず、極月卅日何卒して年
越用意と申す者もあり。又萬事流例になり御貢物御取立も三
月に成りし故、祝ふて門餝は致し年越米餅などなくても愁な
しと申すもありけるに、卅日の朝五つ頃頗る大震にて汐も少
し狂ひあり。右に付大騷ぎになり、俄か餝も何事も止まり鄕
へ迯るもあり、多く中山へ莚などを張廻はし風凌ぎを拵らへ
石釜(竈か)を拵へ、其夜は大事の超年なるに墓を枕に寢るも
あり、林の中にて諷ふもあり、老兒は塞さに惱み艱難を致す
こと人も我も哀れなること、天變とは申し乍ら恐しき時節に
生れ合すと語りあへり。正月二日大風大雪地震晝夜止まず、
然れども人氣強くなり次第に恐れず、此書四月中旬に相認め
に付き去霜月より此節迄、地震、大風、大浪、大雨など數度
に及び候得ども時々筆し得致さず漸く荒增を記す、四月十七
日大風雨洪水なり、十八日浪高く御分一之前濱を打越しハト
半分程にて腰位イ立、四月廿四日夜四ツ時餘程の地震致す。
さて亦更に記す。去る丑の春より夏をかけて江戸表へ亞利亞
(亞米利加?)船拾艘程漂着いたし候由は恐乍ら御公邊は申し上る
に及ばず諸國穩かならざる事に候ひしが、御大老職御詮議の
上當時御例と候交易御差明け仰せ付られ候由に付いさゝか穩
かに相成候。然れども當御國亞利加船海防御手當として大砲
を俄かに御鑄立の上海岸浦々へ貳挺三挺或は數挺御備へに相
成り、御大砲臺場此度より出來候也。又更りて當正月頃數日大
辰巳風吹き詰め江南船漂流し來り俄かに騷動ありしが、存外
の小船にて人數纔か拾貳人乘にて赤岡の沖へ碇泊致し、香我
美御郡方より御役人乘移り候。漂流船の儀に付薪水米などを
與へ追放候處據なく歸路矢頃候哉歸帆も致さず再着に付、浦
戸へ漕ぎ寄せ滞船致させ公邊へ御伺に相成居候處、四月上旬
勝手次第に歸帆致させべく仰せ付けられ、天氣次第出帆の筈
を以て御廻文に相成る。則ち四月廿四日出帆とあり、浦戸に
て立火あり騷動これなき樣心得の爲め上下浦々順烟定め有り
て大。通歸帆あり哉と衆説ありける。然るに同廿五日八ツ時
手操船見歸り當湊の如く漕船三艘にて參り居る由訴に付き俄
かに我々(以下缺文)
(本書文字讀み難き箇所は前後の意味にて推想し間々誤字もあり
古字もあり大かたは訂正して讀み易からしめたり。末尾の文缺け
たるは遺憾なるも今は致しかたなし)。